第9回トクマ・ノベルズEdge新人賞を受賞した伊藤螺子さんの小説『電車』です。有料メルマガで連載中です。
 
■『電車』 

 ことことと軽い振動を後頭部に感じて、少女は目を覚ました。いつの間にか床で寝入ってしまったらしく、全身が軋んでいる。薄闇の中に見えるのは、消えたままの電灯と天井の木目だけだ。楽しい夢が途中で打ち切られてしまったような寂しさが胸に残っていたが、見た夢の内容も、そもそも夢を見ていたのかすらも思い出せなかった。
 再び目を閉じたが、振動は小刻みに近づいてきて、少女の歪んだ鼻を揺らす。痛みに顔をしかめて身を起こすと、床についた手のひらがぴりぴりと震えた。何か小さなものが床の上を転がっているようだ。
 目の前の白い壁紙に、自分の影がぼんやりと映っている。自分の体よりふた回りは大きい影。寝ぼけまなこでしばらくそれがゆらゆら動くのを眺めていたが、なぜ真っ暗だったはずの部屋で自分の影が見えるのかに気づいて少女は振り返った。
 同時に床の震えが止んだ。自分の背中を照らしていた小さな光源を、少女はまじまじと見た。電車だ。模型のようなサイズの2両編成の電車が、さっきまで少女の頭が横たえられていたあたりに停まっていた。車内から煌々と漏れる光と、小ぶりなヘッドライトが車体の周辺数センチを照らしている。学校に行く時に使っているローカル線のようにも、昔家族旅行に行った時に知らない駅で乗り込んだ古い電車のようにも見える。
 家族旅行。そんなものに行ったこともあったんだな、と少女は驚きとともに思い出す。どこへ行ったのかも、今よりだいぶ若かったはずの親の顔も、濃い霧の向こうの遠い場所に置き去りにされているようだった。
 身を屈めて中をのぞいてみた。実物をそのまま豆粒ほどに縮めたと言ってもおかしくないくらいに精巧な造りのボックス席がいくつも連なっているが、客はひとりもいない。
 運転席に目を向けると、不意にそのドアが開いた。親指にも満たない背丈の、制服に帽子という出で立ちの運転手が、身軽に床へ降り立つと、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。ライターの火は遠くの星のように小さく瞬いてすぐ消える。
 少女に気づいて、運転手は顔を上げた。
「こんばんは」
 自分はまだ夢を見ているんだろうか。本当はまだ眠っているのではないだろうか。
 運転手は、知り合いと世間話をするような気安さで言った。
「少し冷えますね」
 小さい割には低い声だった。少女はおそるおそる返事をする。
「ええ、まあ。秋だし」
「いい季節になってきました。寒い方が煙草がうまいですからね」
 ふうっ、と運転手の吐き出した匂いのしない煙が、自分の顔まで届かずに溶けていく様を、少女は静かに見つめる。
 いい季節なものか、と思う。自分の生まれた日が近づいてくる度に、少女の気は滅入った。生まれたのを祝福されていた頃のことを思い出すのは嫌いだった。
 吐く息に飛ばされないよう運転手が身をこわばらせているのに気づいて、少女は口をすぼめる。
「ところで、大丈夫ですか。病院に行かれた方が」
 逆光で表情は伺えないが、運転手が鼻を見つめているのがわかる。おそるおそる触れると、鈍い痛みが走った。舌を唇の上まで引っ張りあげて舐めてみる。まだ鉄の味が残っている。
「……明日行く。救急車呼んで騒ぎになったら嫌だし」
 そうですか、と小さな声でつぶやき、運転手は先ほどと逆のポケットから取り出した缶のような灰皿の蓋を開け、煙草をもみ消した。
「ねえ、なんなの、この電車。おもちゃみたい」
「電車は電車ですよ。駅から駅へ人を運ぶ」
「ここあたしの部屋だって。駅じゃないよ。線路もないし、なんか電車小さいし」
「いえ、駅です。現にあなたがここでお待ちだったじゃあないですか」
 不思議なことをおっしゃいますね、とでも言いたげに運転手は肩をすくめたので、少女はそれ以上聞くのをやめた。夢の中での会話に意味を求める方が間違っている。
 少女は黙って電車を見つめた。車窓から漏れる光をただじっと前にしていると、いつまででも見ていられるような気がする。
 察したように、運転手が声をかけてくる。
「お乗りになられては」
 少女は思わず、うん、と返事をしそうになるのを喉元で止めた。なんの気なしに発されたようで、その声はあめ玉を持った誘拐犯の誘いのような、甘くて冷えた響きが含まれているように聞こえた。
「……乗れないよ。見ればわかるでしょ」
 一方で、夢の中なら小さくなって乗り込めるかもしれないな、と思いながら少女はつぶやく。運転手は残念そうなそぶりも見せず、穏やかに言った。
「そうですか。今日はこれが最終ですが」
「また来るの?」
「また来ますよ」
「そう。ここからどこへ行くの」
「あちらの方ですが」
 つまようじのように細い腕で、運転手は暗闇に沈む部屋の入り口の方を指した。
「……やめた方がいいよ」
「おや、それはどうしてでしょう」
「あっちは……怪獣がいるから」
 帽子のつばの下で、運転手がふっと笑ったようだった。
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」
「……そう」
 車体先頭の扉を開けて乗り込み、運転手はぴい、と小さく汽笛を鳴らす。出発の合図らしい。
「ねえ」
 少女が呼びかけると、運転手は扉にはめ込まれている窓を開けた。
「はい、なんでしょう。やはりお乗りになりますか」
「ううん、今は無理。でも、あたしがこれに乗れるくらい小さくなれたら、また来て」
 運転手はうなずくと、窓を閉めた。電車はフローリングの板の目に沿ってゆっくりと走り出し、部屋のドアをすり抜けて、消えた。少女はしばらくドアを見つめた後、再び硬い床に横たわった。
 1ヶ月後。
 息子一家がどのくらい荒れた家庭だったのかや、身内が加害者と被害者になった心境を尋ねるマスコミの取材攻勢がようやく落ち着き始め、久しぶりに居間の灯りとテレビをつけた少女の祖母は、やけに近くを電車が通る音を聞いた。
 最寄りの駅からは1キロ以上離れている。それに、その音は背後から聞こえた気がした。
 振り返ると、壁際の仏壇が目に入った。黒い額縁の中で孫が微笑んでいる。胸騒ぎがした。祖母は白い箱のひもを解き、収められていた壺の蓋を開けた。
 壷の中にあったはずの骨は、ひとつ残らず無くなっていた。

■伊藤螺子 小説家
第9回トクマ・ノベルズEdge新人賞を受賞し、『オクターバー・ガール 螺旋の塔に導くものは』で11年デビュー。
Twitter: https://twitter.com/thunderheadhour/
ブログ: http://itoneji.jugem.jp/

(有料メルマガ
http://www.mag2.com/m/0001552211.html 2012年7月5日号に掲載した小説です)