小野登志郎のブログ

出版・ウェブの制作会社(株)小野プロダクション代表で、ノンフィクション・ライターの小野登志郎です。徒然にゆる~く書いていけたらと思ってます。

カテゴリ: 『続・龍宮城』

■上海の日本人ワーキングプア

 2011年の4月中旬、上海で生活している日本人の青年、山口洋介さん(仮名・31歳)と話をした。

 山口さんの身長は160センチくらいと小柄だ。時々変な咳をするのが心配だ。わたしたちは、上海市の万航渡路と長壽路の交わるところのスターバックスでまずは会った。この近くに彼の自宅があると言う。彼の自宅は1Kで2500元。窓ガラスが割れ、さらに壁が剥がれ、風呂が黒く汚れているため入れないという。彼が今務めている会社の前任者が使っていた部屋だという。わたしたちは、山口さんが行きつけの、日本人が経営するバー「SIS」に移動した。山口さんは言う。

「上海に来て半年くらいになる。仕事は日本系の広告代理店。日本の企業から仕事を受注して上海で物産展を開くアレンジをしたり、広告を打ったりする。会場の設営、人の手配、また日本の会社に対して中国でのビジネスについてアドバイスもする。会社は18人くらいで日本人は5人。給料は1万元です。中国人の給料の水準から言えば悪くはないですが、上海に住む日本人の給料としては底値に近いんです。そのうち2500元が家賃で、それを含めて生活費が6000元かかるので、手元に残るのは4000元。移動は基本、地下鉄ですが、タクシーも使っています。休みの日には、飲み屋やクラブに遊びに行くこともありますよ」

 山口さんの生まれ故郷は中国地方のある小都市。中学校までは目立たない子供だったという。高校では第一志望の公立校に行くことはできず、私立の学校に行った。中学校の同級生と離ればなれになり、そこが「目立つチャンス」と考えた。

「自分が何か新しいことをしたいと思っても、普通は恥ずかしくて止める。でも新しい環境なら恥ずかしいなどと考える必要がないと思った」

 週に1度、私服で登校する日があり、そのときにエルビス・プレスリーのようなひらひらの付いた服で登校。周囲から浮いていたが、首尾よく目立つことができたので、悪い友達と付き合うようになった。高校2年生の時、キセルで広島まで行き、馬券売場に行って初めて馬券を買った。しかし、未成年だったので警備員に捕まってしまう。その後、武豊が自分が好きだった女優と結婚したことで、「自分も」と奮起しジョッキーを目指すようになった。

 もともと小柄だった山口さんは、43キロまで一気に減量し、レーシックの手術を受けて試験に臨んだが、過剰な減量が祟って栄養失調になり、視力が逆戻り。ジョッキーになり損ねてしまう。

 それでも「オレはジョッキーになる」と家を飛び出し、福井の牧場で馬の乗り方を学んだ。さらに佐賀に移動し、馬の仕事に携わるようになる。佐賀では仲間とともにレクチャーを開催する会社を立ち上げるが、あえなく失敗。その直後、中国で競馬が解禁されるとの情報をキャッチし、単身船で青島に渡る。そこから24時間かけて武漢に行き、できたばかりの巨大な競馬場を目撃する。

 その後、ライブドアのインターンシップ制度を利用して大連のコールセンターで働くようになる。仕事内容は、中国系のパソコンメーカーの日本語応対だった。従業員は3000人くらいいたが、日本人は10人くらいだった。だが、大多数の中国人が日本語を話すことができ、山口さんは中国語を使う必要がなかった。そして、山口さんはそのとき出会った日本人女性と付き合うようになる。当時の月給は3000元。生活するのにぎりぎりの額だった。生活費が足りない日本人は、持ってきた貯金の日本円を崩すなどして、なんとかしのいでいたという。

 その後、インターンシップの期限が切れた。山口さんは、そのまま大連に残り、コールセンターで2年ほど働いた。そしてシンガポールの友人から、「日本人で馬に乗れる奴を探している」という話を聞き、今度はシンガポールへ行った。彼女とは遠距離恋愛を経て、結局別れることになったという。

 シンガポール滞在中、実家の父が危険な状態だとの知らせを受けて、日本に戻った。戻ってすぐに父は亡くなるが、半年くらいは故郷にいた。

 そこで居酒屋のアルイバイト始めたが「18歳の若造に、こき使われた」。ショックを受けたという。山口さんは中国大陸を飛び回り、そこで仕事をしてきた。シンガポールにまで行った。

 しかし、居酒屋の仕事のことについては、「確かにそいつのほうが詳しい」と諦めつつ彼はつづけた。


「『あれ持ってきて』『そうじゃない、違うって』と怒鳴られました。でも腹は立たない。腹が立つのは周囲の女性に『あのおっさん、若い奴に怒鳴られてるよ』とか思われるのが嫌だった。
 でも、本当は他人は、それほど自分のことを気にしてない。日本にいると同級生との社会的ポジションの差というものを感じた。同窓会などで飲みに行っても、高い店に行かれると困る。割り勘にしてもらっても払えないことがある。だから、わざと終了30分前に帰り、『山口はあまり飲んでないからいいよ』と言ってもらい、支払いから逃れた」

 故郷での山口さんの月給は、5万円くらいしかないこともあり、一日の食費は100円まで切り詰めた。大きなパンを買ってきて、少しずつかじり空腹感を紛らわしたこともあるという。
 山口さんは、日本ではどんなに頑張っても駄目だと思い、再び中国へ行くことにした。今度は上海の広告代理店で働くことになった。しかし山口さんは、上海のことがあまり好きではないという。

「何もかもがゴチャゴチャしている。でも、あと数年は上海にいるつもり。次は香港などに行きたいと考えているが、日本に戻るという選択肢は無い。日本は、一番駄目。もちろん日本のことが嫌いなわけではない。武士道や『気合いを入れる』という日本独自の精神は、すばらしいと思う。大震災が起きた時に日本にいたら『何かできることはないか』と被災地に向かっていたかもしれない。何もできないかもしれないけど、何かやらないと始まらない。それはどこにいても同じ」

 山口さんは「何か表現することをしたい」と言う。日本では自分を表現することはできなかった。とも。

 現在の彼の目標は、近々解禁されるという中国での競馬に絡み、日本から輸出される馬の橋渡しをする会社を立ち上げることだと言う。

「日本の馬は、今では世界的に有名。ドバイで一等を取ったりしまいたからね。今僕がやっている仕事は、それに繋げるためにやっている。中国のビジネスを知り、自分のビジネスに繋げたい。ただ、今は同じ目標を共有する仲間もいないし、準備があまりできていない状態。上海ではそれほどいい暮らしはできていない。日本の商社駐在員は、上海など中国各地で豪遊しているらしいが、自分はそんなレベルにはほど遠い。でも嫉妬してもしょうがない。自分の給料はたったの1万元だが、農民工などと較べると遙かにいい暮らしができているし、日本に居た時よりも充実している。

 中国人の未熟さにイライラすることはしばしばありますよ。財布を盗まれたこともあるし、詐欺に遭ったこともある。地下鉄の扉の前で、なぜ出てくる人を待てないのか。でも受け入れなければいけないと思うようになった。苛立ったところで現状を変えられるわけではない。それは自分の境遇にしても同じ。ミクシィの上海コミュニティでは『ろくな能力もないくせに、日本を飛び出してきたアホな日本人』などと、自分のような境遇の人間が揶揄されているが、『そうだよ、その通りだよ!』と思う。そういう人に自分の人生について説明しても理解してもらえない。ただ自分は目標を持つことで、生きるためのモチベーションが保たれていると感じる。

 自分には集中力がない。短時間なら集中できるが、長い間は無理です。中国語の勉強にしても、モチベーションを保つために、中国語を使う目的で女の子のいる店に行ったりした。今は、たまにクラブに行くだけだけど」

 山口さんは最近、物産展でアレンジした中国人の女の子に連れられて上海のクラブに行った。この中国人の女の子にはフランス人の「彼氏」がおり、クラブに行くと10人くらいの男女混合のフランス人がいた。全部で10万円くらい使ったが、彼は割り勘で1万円だけ払った。女の子は西洋人好みの「アジアンビューティ」な感じだったが、仕事ではおとなしく、物産展ではただの売り子。その子がクラブで派手に遊ぶのが面白いと思ったという。

 山口さんは中国上海で、まさに浮遊していた。
(つづく)

 
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 中国の携帯電話は安く、日本人でも身分証明書無しで簡単に買える。わたしは近くのデパートで売っていた一番安いLGの機種を選び、それが248元(約3200円)。1.5元/分で、100元分使えるSIMカードが180元だった。探せばもっともっと安い携帯電話もある。こういった廉価で足が付くことのない携帯電話を使って、日本で頻発している「振り込め詐欺」を行っている。実際に福建省で、中国人が日本人を雇って「振り込め詐欺」の電話を掛けさせていた件が摘発されたこともあった。

 そんな携帯電話でわたしが連絡を取ったのが「虞」という中国人の男だった。

 虞は88年に来日し、99年まで日本にいた。はじめは留学生として東京に行き、学生時代から雑誌のライターをしていたと言う。

「新宿歌舞伎町はよく取材しました。ゴールデン街は、今も東京に行くたびに訪れています。ライターとして本を書いたこともある。でも、今はテレビ関係の仕事をしています。近々、上海メディアグループという上海ナンバーワン、中国全土でCCTVに次ぐテレビ局で番組を立ち上げ、日本のスタッフを使ってバラエティ番組を制作します」

 虞もまた、成功した来日経験のある中国人の一人だ。今は東京と上海に会社を設立し、本業のテレビ関係の仕事以外にも、不動産や車などブローカーまがいの仕事もしているという。虞は言う。

「日本人の中国での音楽ビジネスに関する認識はおかしいです。ある曲の権利を中国側が『買いたい』と言うと、『海賊版が心配だから売らない』と言う。でも実際には『売ってないから海賊版が出てくる』のです。売りに出した後で海賊版を訴えればいい。また、『中国では人脈が重要』と言われますが、人脈さえ作ればいいというわけではない。最初から人脈構築に偏重しすぎて、失敗するケースも多々ある。日本人ビジネスマンは、中国のことをまったく勉強せずに飛び込んでくる人と、いつまでも中国のリサーチばかりして飛び込めずにいる人の2種類に分けられます。音楽業界は、リサーチは半年もしたら無意味になるので、次のリサーチに入ることになる。そして、いつまでもリサーチばかり続けなくてはならないとなります。決定のスピードがとにかく遅い」

 虞は中国に進出している具体的な日本の音楽・芸能関係各社の名を上げながら、その批判を繰り返した。

「日本は、コンプライアンス国家化していますからね」とわたしが言うと、虞は少しだけ皮肉な顔をして笑い、「そんなこと言っていたら、いつまで経っても中国でのビジネスは成功しない」と言った。

 2011年4月当時の虞の試算だが、中国の映画の市場規模は100億元だという。そして毎年40%以上増えている。そんな中国市場に対して日本映画は年間1、2本しか入らない。最近入った映画は『GOEMON』だという。そもそも外国の映画は中国に年間40本しか入らない。うち20本がハリウッド。残り20本をヨーロッパやアジアなどが取り合うという構図だ。そのほとんどが有名監督の映画ばかりで、マイナーな映画が入る余地はない。

 90年代に『101回目のプロポーズ』『東京ラブストーリー』といった日本のドラマが中国に輸入された。人気が出て、ドラマの出演者に中国のCMへの出演が打診されたが、日本のCMギャラよりも少し安いという理由でほとんどすべて断られたという。直後に韓国のドラマや映画が入ってきて、韓国人俳優は中国で一気に知名度を上げた。

 韓国は国を上げてコンテンツの輸出を支援。輸出する作品には補助金を出していた。そのため日本のコンテンツは人気が無くなり、輸入できなくなった。日本はテレビ番組のフォーマットをもっと売るべきだったと「親日派」の虞は言う。ヨーロッパなどは積極的に売っている。日本がヨーロッパに売った番組が、ヨーロッパを経由して中国に入ってくることすらあるという。

「中国では、日本のあらゆるコンテンツが盗まれている。もっと日本人も中国で稼ぐことを考えて欲しい」

 虞はそう強調した。

 2012年7月現在までに、日本の音楽・芸能関係者はどれほどの数が中国に攻めのぼっていったのだろう。正確なデータを持ち合わせていないが、虞のような中国人芸能関係者とやり合っている日本人業界関係者は、増え続けていることだろう。それだけは間違いは無い。
(つづく)

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■上海の大学生

 2011年4月初旬の中国上海。日本で大震災が起き、福島第一原発で事故が起きた後の上海でのことである。

 滞在したホテルの名前は『レイフォントセレブリティホテル』と言う。名前は豪華だが、日本円にして一泊4000円と高くはない。外出すると雨が降ってきたので、このホテルの近くにあったファミリーマートに出掛ける。ファミマは上海の下町にある食材店などに較べてかなり割高。傘が38元(約490円)と日本と変わらない価格設定。しかも、袋は有料である。

 そして両替のため中国銀行に入ると、小汚いジャケットを着たおじさんが、職員でもないのに電卓を持ってしきりに中国語で話しかけてくる。「銀行窓口より高いレートで両替してやる」と言っているようだが、それをこの銀行の職員は知らんぷりだ。

 銀行員はちゃんと英語ができるのでなんとか話が通じる。わたしは、持っていた15万円を換金した。レートは7.5円/元で11000元に。大金持ちになった気分だ。この札束を、隣のおばちゃんにじろじろ見られた。

 その夜、燿という中国人女性と会った。燿は以前、新宿歌舞伎町でスナックをやっていたが、不法就労の中国人を雇った罪で逮捕され、中国に強制送還された経験を持つ。

 しかし今や、高騰した中国株や不動産を運用し、億万長者の仲間入りした成功者となっている。40を少し過ぎた燿は、高級品を全身に纏っているが、眼鏡はアラレちゃんのようで可愛らしい。

 そんな燿が、上海で経営しているのは日本料理屋であるが、これは望郷ではないが、追い出されてしまった日本への想いが募ったことで始めた趣味みたいなもの。だから、あまり儲けを考えていない。

 燿が経営する店には、日本人の客はあまり来ないという。しかし、多くの中国人客で店は賑わっている。この日本料理屋で使われている肉はアメリカ産で、仕入れ値が上下するので難しいが、ほとんどの食材は日本のものを使っていないので震災の影響はなかったと言う。燿は言う。

「日本の株がガクンと落ちたとき、これは買い時だと思いましたね。わたしの友人の日本の商社マンは、震災後家族の安否を確認しに日本に帰った人が多いです。日本の経済は震災のためにひどいことになったが、これ以上悪くなることはないでしょ。日本の株は、これから上がる。わたしは、震災の混乱の中でも礼儀正しくコンビニなどに並ぶ日本人を見て、日本はいいなと改めて思ったよ。でも日本人にはなんというか、危機感が無いね」

 燿は日本のことが大好きだ。また日本で暮らしたいと言う。しかしまだ、日本に帰る予定はない。

「日本も恋しいけど、上海はこれからまだまだ伸びる。今はまだ、これからも上海でやっていこうと思ってます」

 その後は、燿が紹介してくれた日本のテレビ関係の仕事をしている中国人プロデューサーと会食。そして夜が更けていった。

 次の日の朝、わたしは人民広場駅の来福士広場(デパート)に行った。ある中国人の待ち合わせ場所に指定されたそのデパートのスターバックスで彼を待っていた。店員は皆、英語が流暢だ。店内には西洋人がちらほらいる。

 その場に現れたのは、上海の大学に通う申洋君。21歳の彼はヒョロっとしているが、身長180センチくらいと背が高く理知的な顔立ちをしている。真面目な大学生で、日本人とまったく変わらない日本語を喋る。大学ではマテリアル科を専攻している彼は、東京で生まれ、6年間日本で過ごしていた。申洋君は、上海に戻ってきてからは日本に一度も行ったことが無いと言う。

 当時、中国では民主化を求めるデモや集会が呼び掛けられていた。申洋君と一緒に行ってみようかと思ったのだが、彼によると、2週間ほど前がピークで、今は次第に沈静化に向かっているということだった。申洋君は言う。

「そもそも中東のリビアに影響を受けて『革命』の機運が高まっていたわけですが、もう醒めた感じですね。『どうせ中国では革命などできない』という諦めムードがある。おそらく、あと10年から15年は中国の体制は安泰でしょうね。取り締まりは厳しいし」

 申洋君と会った来福士広場の上の映画館は、デモ集団の本拠地で、周囲は大勢の公安によって監視されていた。

「耳にイヤホンを入れている奴が覆面警察官。誰かが変な動きをしたらすぐに逮捕できるようになっている。通行人がデモの写真を取ったら、すぐに『おい』と声をかけられ『写真を見せろ』と言われます。そこにデモの写真が写っていた場合は、その場で削除させれるか、最悪の場合は逮捕される。記念撮影でもデモが写っていたら駄目です。要は、公安当局はデモの存在を知られ、デモが広がるのを恐れているので、徹底的に情報を統制しているんです。警察は弁護士や思想家など、危険人物をマークしている。中国には言論の自由がない。当たり前のことが言えない。しかし教育のある人だったら、政府が嘘をついていることは薄々気づいている。でも農村の教育のない人は何も知らない」

 そんなこんなを、午後ののんびりとしたスタバで話していた。周りに人がたくさんいたが、申洋君の中国共産党批判は延々と続いた。彼は、周囲の人間を気にするそぶりはまったく無かった。

 申洋君には、日本の友達が何人もいた。今日の夕方にも日本人の大学生と会うらしい。彼は、今の大学を出たら東京の大学院に行きたいと思っていたという。しかし、震災や原発の問題があり、両親が反対しているので迷っているとも。

「とにかく中国を出たい。中国だと、いくらいい会社でも初任給は6000元くらい。それではマイホーム、マンションを買うことはできない。給料はほとんど変わらないのに、物価だけ上がっている。男がマンションと車を持っているかどうか、中国の女は気にします。外から見ると中国は発展しているように見えるかもしれないけど、実際にはひどい貧困が残っている。『蟻族』や『鼠族』と言われる人々ですね。農村の若者は一発逆転を狙って都市部の良い大学に入ろうとする。中国の公立学校では、一人でも優秀な生徒を輩出するためにレベルの高いことを教える。入学試験の結果で実力別にクラス分けされ、さらに優秀な生徒は特別クラスに入る。そのクラスで優秀な一部の生徒だけが都市部の大学に行ける。農村から都市部の大学への競争倍率はすごい。20万人受けて2000人行けるかどうか。農村出身者は受験の用紙の色も違う。一方で、都市部の大学志願者は7万人程度ですが、定員は8万人。つまり都市部に生まれれば、少なくともFランクの大学には行ける。しかし農民はFランクの大学にすら行けない」

 都市部の大学生である申洋君の大学格差分析は明快であり、「僕自身はあまり優秀じゃない」と謙遜するが、わたしから見たら、中国語はもちろん、日本語と英語を使いこなす将来有望な理系エリートビジネスマンの卵である。


 そんな申洋君の言葉を、もう少し紹介したい。

「将来はアメリカに行きたいが、あまり成績が良くないので行けるかどうかは分からない。農村部出身のエリートと僕とはやはり差があります。アメリカは一番のエリートが行くところですから。だから日本に行きたい。原発事故が起きたと言っても、中国にも原発がありますし、福島の事故の直後から専門家が『原発は大丈夫です』と発言していたでしょ。実際のところ中国の国民には原発に対する不安はあまり無いです。でも、日本の震災・原発事故に関しても、対岸の火事という雰囲気ですね。あまり興味を持っていないのが中国人の本音。日本から来た人を『放射能』と言って避けるのはありがちですね。そんなこと言ってるの、ほんの一部の中国人だけですよ」

 申洋君はインターネットが大好きである。日本の情報はほとんど全てネットから得ている。

「日本の本はあまり読みませんが、ミステリーは好きです。ネットに慣れて本を読まなくなったこともあります。僕はツイッターで、中国の真実を知った。中国のSNSのアカウントなどはありますが、中国語ではものは書いていない。公安当局バレたら何されるか分からないから。でも日本語のブログは大丈夫かなと。それほど危険なことは書いていないけど、体制の核心に触れること、天安門事件のことなどを書かなければ大丈夫だと思う。当局が設定したキーワードに引っかからないように注意はしています。中国のサイト管理者は自主的に危険な書き込みを削除しますが、ライブドアはしないですね。ツイッター、フェイスブック、ユーチューブは中国からアクセスできません。ただしツイッターの場合、日本のツイッター書き込みソフトを入れていれば投稿できます。中国の危険なユーザーはマークされていて、キーワードによる監視のみならず人力で投稿がチェックされています。でも、中国のSNS利用者は、当局の監視の網に引っかからないように表現を工夫しますからね」

 申洋君は反中国共産党運動の活動家でもなんでもない。ごく普通の学生である。そんな彼が、中国では出版される本は、すべて当局にチェックされている、と怒っている。

「例えばヒラリーの回顧録は共産党を批判した箇所が当局によって勝手に変更され、ヒラリーは激怒したことがあったんですよ!」

 少し話を変えた。中国で人気の日本の作家は? と聞くと、「日本の代表的作家である村上春樹は有名で、最近では東野圭吾が人気」だとも。でも彼は、読んだことは無いらしい。

 申洋君とは、今後ともいろいろと協力し合っていくことを約束して、ひとまず別れることにした。

 彼は、新宿歌舞伎町ではなかなか出会う事のできない、優秀で真面目な中国人の大学生だ。だけれども、それが今の中国の若者の当たり前の姿である。申洋君は今後、新宿歌舞伎町の不良中国人とはまったく違う次元で、世界的なエリートビジネスマンとして、激しい生存競争を開始することになるのだろう。

 当たり前のことだが、今も日本で悪事を働いている、申洋君の同胞である中国人のことなど、彼の目に入ることは、おそらく今後とも、まったく無いのである。
(つづく)


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 あの大地震が起きた後の2011年4月1日、わたしはいまだ大きな余震が続く東京を離れ、中国上海に向かう機内にいた。地震と放射能を怖れ逃げ帰った不良中国人を追うためである。


 もともと3月11日に上海に行く予定だった。しかし、成田空港に向かうため自宅から新宿駅に歩いている時に、あの震災が起こった。多くの人々と共に、呆然と新宿アルタ前の大画面に映る津波の映像を眺めることしかできなかった。その後、多数の在日の中国人たちの多くは、母国への帰途についたのだった。


 機中にて堀田善衛の『上海にて』(集英社文庫)を読んでいた。40年以上前、彼はこう書いていた。


「上海が農村を支配し、搾取するというのではなくて、農村が上海に侵入し、いわば、農村にひきもどされ、それにつかえるものとなった、ということなのだ。なんとなく田舎臭くなったな、とも私は思った」


 かつて東京を遥かに超えるアジア最大の大都会であった上海は、毛沢東と中国共産党によって「農村につかえる」一地方都市となってしまった。しかし今の上海は、また、その逆を行っている。アジアどころか、まるで世界最大の都市を目指しているかのごとく、上海はその周辺の農村を都市化し、飽くなき拡大を続けている。


 上海の空港に着くと、待っていた人物たちがいた。日本に帰化して日本の名前も持つ中国人の秦野と、在日コリアン二世の沢原だ。沢原の息子から預かった荷物を彼らに渡す。中に何が入っているのかは分からない。


「お前に変なものを持たせるわけがないだろう」


 そう言われた30kgほどの「荷物」だ。変なものではないことを祈るしかなかった。実際の中身に関しては、わたしは何も分からない。

 秦野と沢原が用意した二台の車に乗って高速道路をひた走る。ジェネリック・シティ上海など、上海では超高層ビルがにょきにょきと建っている。また、それぞれに個性はないが、歓楽街のようなネオンサインが夜の表情をつくっている。

 帰化中国人の秦野が経営する日本料理屋でわたしたちは夕食を取った。この店の商号やメニュー内容は、ある日本食チェーン店のパクリだ。最初は提携するつもりだったが、断られたので勝手に登録したという。秦野はいう。


「だから、もう文句言われる筋合いない」


 それを聞いた在日コリアンの沢原は、「上海に持って来たのは、日本の良質なサービスで、味ではないよ」と言う。1人40元ほどの客単価。儲かっているのかどうか聞くと、「赤字じゃない」とのことだった。

 その会食の場には、福島第一原発関係で働いていたある郭庸華(仮名)という中国人女性がいた。彼女ものまた地震と原発事故から逃げてきたのだ。郭によれば、福島原発周辺の市町村の町長はかなり儲かっているが、地元民はそれほど儲かっていないという。わたしは彼女に地震と原発事故に関するコメントを求めたが、原発に関する証言は上から止められているからダメだと断られる。郭は言う。


「福島県の人や土地には愛着があり、このまま逃げたいとは思わないですね。放射能汚染はそれほど怖くないですよ。でも、上海の家族からが『帰ってこい』とうるさくて。3月23日まで福島にいましたけどね」


 そんなこんなで上海に逃げてきたという彼女は、そろそろ戻ってもいいと言い、そして実際に4月末には日本に戻ることになる。


 郭は9歳の時初めて日本に来て、それ以来20年間日本に住んでいた。大学の経済学部に6年間通い、福島市に住んでいた。


 在日コリアンの沢原と日本に帰化した中国人秦野から紹介された、福島原発関連事業で働く郭という女性。東アジアの関係性の複雑さがなにかおかしかった。


 地震のとき、郭が務める会社の社長は何も持たずに避難して、頃合いを見て必要なものを取りに家に帰ったという。郭は言う。


「わたしは福島では裏切り者と思われている。地震直後、日本国内の電話はまるで繋がらなかったけど、国際電話はすぐに繋がりました。それなのに上海に帰ったら誰も会ってくれないんです。放射能が怖いみたい。半減期を待っているみたいね」


 郭は福島の会社で精力的に働いていた。彼女いわく「リーダー気質」なのかもしれない。しかし、福島県民の少なくない人は、中国人である郭のことをプライベートでは深く付き合おうとはしないのだという。「福島の人は保守的」だと言う郭は、他にも不動産会社のマネージャーもやっていた。その関係で、福島に数多くある水源つきの山を日本人に売りたいと思っていたが、もうできないと言う。


「今後は、上海で何かをやりながら日本に関わっていきたい。たとえば、自殺していない農家の人を上海に連れてきたい。日本人は優秀だというが、現実にはタイにも中国にも負けている人も多い。なのに、日本人の多くは自分たちのことを優秀だと思っているし、だから日本を出ようともしない」


 誰が見ても立派なビジネス・レディである郭の言葉を、沢原と秦野、そして彼らの若い中国人部下たちが神妙な顔をして聞いていた。彼らは日本と中国で違法行為スレスレのシノギで生計を立てている。日本の第一線で働く郭のことが羨ましく、そして誇らしげに思っているようだった。
 (つづく)


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