小野登志郎のブログ

出版・ウェブの制作会社(株)小野プロダクション代表で、ノンフィクション・ライターの小野登志郎です。徒然にゆる~く書いていけたらと思ってます。

カテゴリ: 中国関係

 (取材 浪城暁紀 構成 小野登志郎)

■北朝鮮の人々が脱北に走った主なる要因は食糧難

(⑥からつづく)

 チャンホのオモニが子供たちを親せきに託して脱北した要因は食料確保のための金稼ぎであったと思われる。

 ここでこの頃の北朝鮮の食糧事情について触れておくことにしよう。

 この時期の北朝鮮の食糧事情と脱北とな関連を考察した文書に2006年中国の日本大使館が出した「「脱北者問題をめぐる近年の北朝鮮の動向」がある。「1990年代以降の社会主義圏の崩壊と、それにつづく北朝鮮の国際的孤立、「主体農法」に代表される農政の失敗により、北朝鮮経済は極度に悪化した。その後、1995年から97年にかけて発生した水害と旱魃により、大規模な飢餓が発生、200万人から300万人と伝えられる餓死者、10万人から30万人と推計される難民が発生、「生存のため」に中朝国境を越える脱北者数が急増した」と分析している。

 さらに「脱北者問題発生の要因」と言い項では「ロ.経済的要因」で「1990年代後半に脱北者数が急増した背景には、経済難による住民の生存権の確保の問題が挙げられる。配給制度の崩壊と、闇市場の急速な拡大、それに伴う物価の急激な上昇は1995年以降の北朝鮮社会の変化を象徴的に表している。2002年7月以降、配給制度の見直し、給与の大幅な引き上げ、企業所の独立採算を柱とする『経済管理改革措置』が施行されている。各企業所が自主的に価格を決定できるというのは、一見市場経済を導入した合理的判断のように見えるが、物不足のまま価格を大幅に引き上げたことにより、局の意図を超えた大幅な値上がりが発生した。給与は引き上げられても、豊かになるという実感はない生活感覚となっている。北朝鮮では「経済管理改革措置」の実施以降、急激なインフレが起こっていると伝えられている」と分析している。

 そして、脱北者を亡命型と生活脱北型に分け、生活型について「北朝鮮の経済状況は1998年頃が最悪であったが、2000年以降は改善の傾向が見られるようになったといわれる。しかし、これは最低限のカロリーが摂取できるという程度で、食糧を含む全ての物が不足している状況に大きな変化はなかった。食糧価格は高騰し続け、公的配給制度は麻痺したままであった。住民間の貧富の差が急速に広がったのもこの時期の特徴である。

 

 その結果、それまでの生きるために食料を求めて脱北してくる形態から、よりよい生活環境を求めて自発的に移住(移民)する形態へと脱北の性格が変化してきた。ある程度のリスクを覚悟してでも中国に渡り、現地で就職し、生活基盤を築く者、結婚して家庭を持つ者等、脱北の目的が多様化するようになった。生活向上や子弟の教育環境改善を望んで、脱北する者もいるという。これらの脱北者の多くに共通して言えるのは、北朝鮮に残っている家族に経済的な支援(仕送り)をしている点、脱北者自身も北朝鮮と中国の間を頻繁に行き来している点である。

 近年は中国国境地域での取り締まり強化により、この地域の脱北者数は減少の傾向にある。既存の脱北者たちは、黒竜江省、山東省をはじめ、浙江省、貴州省など内陸の方へも移動し、偽造の身分証や他人の戸籍の売買を通じ、中国国籍を取得し、中国に定着する段階にある。」筆者が延吉で接触した脱北者の大半が在中国日本大使館が指摘する生活型脱北者であった。筆者の経験からしてこの指摘は、的を得ているように感じられる。

 食糧を買う金を稼ぐために中国に渡ったチャンホの母は、まさにこの生活型の脱北者であったのだ。

■オモニ(お母さん)を探して黒竜江省牡丹江市へ

 翌朝、チャンホは起きるとオモニを探すため街に中に向かった。初めて見る延吉の街は、街中にハングルと漢字を列記した看板の並ぶ不思議な街だった。朝鮮のようでもあり中国の様でもあった。

 街中からは聞きなれた朝鮮語が聞こえてきた。中国語も聞こえてきたがもちろん何を言っているか判らなかった。叔母が言うにはオモニは、延吉の西市場という所にある食堂で下働きをしているとのことだった。

 街中の屋台などで朝鮮語を話している人物を見つけ西市場の位置を聞いた。そのアジョシ(おじさん)は何の疑いのそぶりも見せず道を教えてくれた。アジョシ(おじさん)の教えてくれた通りに西市場を目指した。そして、ついに西市場に到達した。チャンホにとってそこは、とてつもなく大きな市場であった。故郷の茂山にも自由市場があり、行ったことがあるが、それに比べたら雲泥の差であった。

 市場の中に歩みを進めた。そこには屋台が軒を連ね、見たこともないような品物が並んでいた。チャンホはここでも自分の国がいかに貧しいのかを思い知らされた。

 市場の裏手に回るとアジュンマ(おばさん)たちが列をなして路上の座り込み、目の前に品物を並べ「買った、買った」と朝鮮語で声を上げていた。これは北朝鮮でも見慣れた光景であった。そこはまさに朝鮮世界であった。チャンホは中国に来ていることを忘れたかのようにアジュンマ達の間で飛び交う朝鮮語に聞き入っていた。

 そのアジュンマの一人に、この間チャンホが大事に持っていた、叔母が書いてくれた住所を見せた。そして、この店はどこにあるのかを聞いた。そのアジュンマは自分は近くの農家から来ているから判らない。近くに並ぶ店に聞けば判るだろうと教えてくれた。

 朝鮮料理のメニューが書かれた写真が並ぶ店を見つけ、店員に探している店について聞いた。店員はすぐ近くにあると教えてくれた。やっとオモニに会える。チャンホの胸は希望に溢れた。

 そしてその店はすぐに見つかった。オモニはこの店で下働きをしているという。チャンホは店の裏に回った。ちょうど裏口から一人のアジュンマが出てきた。オモニか!チャンホは思わず駆け寄った。しかしそれは見知らぬアジュンマだった。チャンホはこのアジュンマに母のことを知らないかと聞いてみた。最初、警戒感を露わにしたこのアジュンマは、チャンホが北朝鮮から来た事をすぐに見破ったようだ。つまり、彼女もまた脱北者であったのである。

 そのアジュンマはチャンホに今は忙しいから、店が引ける夜10時過ぎにもう一度来るように告げた。その様子からチャンホはこの店に現在オモニがいないことに気付いた。しかしこのアジュンマはオモニのことを知っているようだ。

 チャンホは夜もう一度来ると告げて、市場の方へ戻って行った。市場は広く、全部見るには大変な時間が掛かりそうだったが、時間を潰さなければならない。チャンホにとっては好都合であった。チャンホは市場を“探検”することにした。まず一階から始めた。一階は食品を扱う店が主に入っている。その食品売り場には食材が溢れていた。

 店先に並べられた大きな塊の豚肉にまず度肝を抜かれた。そんな店がずらっと並んでいる。その先に毛を剥かれたニワトリが山のようにある。そしてその先にはこれまた毛を抜かれ内臓を抜かれた犬が丸のまま並んでいた。中国にはこんなに肉があるのかと驚かされた。

 その先は海産物のコーナーだった。これまた見たこともない魚や貝が並んでいた。魚と言えば北朝鮮では干物のミョンテ(スケトウダラ)しか見たことがなかった。チャンホが一番びっくりしたのは、水槽の中で蠢く大きな生きたカニだった。チャンホは全く知らなかったことだが、これらの水産物のほとんどは北朝鮮からもたらされていたのだ。海に面していない中国延辺自治州は、水産物を全面的に北朝鮮に依拠していた。北朝鮮の日本海側は有数の漁場で、そこからは日本の北海道とほぼ同じ種類の海産物が水揚げされる。しかしその豊富な水産物は、餓えにあえぐ北朝鮮の国民に供されることはほとんど無く、金正日一族の金庫を充たす外貨獲得の一環として、中国、ロシア、そして日本に輸出されていたのである。
(つづく)

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(取材・浪城暁紀 構成・小野登志郎)


 僅かな食料を携えたチャンホとその兄の二人は、叔母には何も告げず家を出て豆満江に向かった。12月になれば豆満江はカチンカチンに凍りつく。茂山付近では豆満江の川幅は狭いところでは40m位しかない。国境警備隊の隙を突けば中国に渡ることはそんなに難しいことではない。

 兄弟二人は、かねてより暇を見つけては豆満江の警備隊の配置や河の状況を確かめていた。そして、ここぞという場所を事前に決めていた。

 12月のとある夜、二人はその地点に向かった。河岸への到達は比較的容易である。問題は遮蔽物の無い20m程の川原と30m程の凍った河である。この50mを走りきれば中国にたどり着く。対岸に辿りつきさえすれば北朝鮮国境警備兵はもう手を出せない。この50mが生死を分ける距離であった。河岸の草むらに身を潜めた兄弟は警備兵のパトロールを待った。一度やり過ごせば暫くは安全な時間を確保できる。しばらくして4人のパトロール隊がやってくるのが闇夜を通しても判った。やがてパトロール隊は彼らの前を何事も無く通り過ぎていった。彼らは5分ほどじっとしていた。

 そしてまずチャンホが、そして続いて兄が川原へ向かって走りだした。チャンホが凍った河に到着したその時、後ろに続いていた兄が叫び声を上げた。石に躓いて転んだようだ。チャンホは焦る気持ちを振り払い、兄の下へかけ戻った。どうやら兄は足を挫いたらしく立ち上がれないでいた。

 その時、後ろのほうから「止まれ」という叫び声が聞こえた。警備兵が戻ってきたようだった。兄はチャンホに「お前だけでも河を渡り、オンマを探せ」と叫んだ。その声に我に返ったチャンホは必ず迎えに来ると兄に告げ、河へ向かって走りだした。無我夢中で走り何とか対岸までたどり着いた。河の向こうから兄を捕まえたらしい兵達の怒号が聞こえた。チャンホは後ろ髪を引かれながら河岸を離れた。

 中国の辺防に捕まると北朝鮮に送り返される。何はともあれ河岸から離れなければならない。チャンホは暗闇の中を河岸からはなれ、山のほうへ向かった。山裾に小さな小屋を見つけ潜り込み、そこにあった藁の中に身を潜めた。

 寒さはなんとか凌げた。チャンホはくたくたに疲れてはいたが中々寝付かれなかった。

 兄はどうしているだろうか。警備兵に捕まったとしても、子供だからあまりひどい仕打ちは受けないだろうと考え、何とか気を取り直した。何時か必ず北朝鮮に戻り必ず兄を救い出す。チャンホはその時、こう決心し、やっと眠りに着けたという。

 小屋に差し込む日の光でチャンホは目覚めた。時計など持ったことのないチャンホだったが、差し込む光の角度で昼近くだとわかった。昨夜は兄のことを思い、遅くまで眠れなかった。しかし一度眠りに着くと昨日の緊張から解放されたためか、思わぬ朝寝をしてしまった。

 最初に考えたのは、この小屋に誰かが来ないかということだった。誰かが来て見つかれば厄介なことになる。ともかく一刻も早く小屋を出て、山の中に隠れなければならない。まず、外で人の声が聞こえないか聞き耳を立てた。何も聞こえない。村人は昼食のため家にいるのだろうか……。

 とにかくそっと小屋の戸を開け、外に出て小屋の陰から周囲を窺った。心配をよそに近くに人の気配はなかった。考えてみれば今は12月で、農作業などしているはずもなかったのだが、そんなことにも気がつかないほど緊張していたのだ。周りに人がいないことを確かめると、チャンホは一気に山へ向かい駈け出した。そして竹藪の中に駆け込むと一息ついた。不思議なことにあまり空腹は感じなかった。今後のことを考え僅かな食糧には手を着けなかった。

 チャンホは竹藪の中に座り込み今後のことを考えた。とにかく母が働いている延吉に行こう。その為には、まず服と靴を調達しなければならないことに気付いた。自分の着ている服はあまりにみすぼらしく、一目でコッチェビと判ってしまう。かつてチャンホは、豆満江の川越しに対岸で遊ぶ中国の子供の姿を見たことがあった。彼らの服はピカピカで自分たちの物とは比べ物にならない物であった。あのような服を手に入れなければならない。

 チャンホは夜が来るのを待った。やがて、夜が来た。

 チャンホは竹藪を抜け出し村へ向かった。200mほど先に明かりが点々と見えた。その明かりを頼りに村へ近づいた。最初の家の傍まで来るとオンドルの煙が上がっているのが見えた。北朝鮮と同じような朝鮮家屋だ。延辺の農村は今でも、藁ぶきでオンドル付きの朝鮮家屋が少なくない。そしてこれらの朝鮮家屋は北朝鮮のそれとほとんど同じ構造をしているのである。

 明かりの着いた部屋からは、家族の談笑するする声がかすかに聞こえた。慎重に周囲を見渡したが外に人影はなかった。チャンホは物置と思わしき部屋に近づいた。そこには洗濯ものなどが置かれているはずだ。ドアに手を掛けた。手で引くとそれはスッと開いた。薄明かりの中で素早く物色する。しかしそこには洗濯ものは置かれていなかった。諦めきれず方々を探していると、靴があるのが見えた。子供用の靴がないかと探ると、あった。履いてみると少し大きいが、歩いたり走ったりするには不都合はなさそうだった。その靴を手にするとチャンホは部屋を出た。まずまずの“戦果”であった。

 チャンホは家を後にすると、暗闇の中で手に入れた靴に履き換えた。今まで履いていた朝鮮の靴は近くの竹やぶの中に投げ捨てた。さて、問題は服である。チャンホは一息つくと服を手に入れるため他の家に向かった。家の様子を窺っていると犬の唸り声が聞こえた。この家には犬がいる。吠えられたらまずいことになる。チャンホは早々にこの家から立ち去った。次の家には物置に偲び込めたものの目指す服は無かった。次の2軒も空振りだった。それが見つかったのは5軒目だった。この家族は大人数なのか山のような洗濯ものがあった。チャンホは夢中で洗濯物の山をかき分けた。そして子供服を見つけた。上着、セーター、ズボン、そして下着まであった。チャンホは慎重にそれらの中から自分に合いそうな一式を選び出し、それらを手にその家を後にした。再び村はずれの竹やぶに戻ると、さっそく着替えた。厚手の上着は特に有難かった。

 北朝鮮北部、そして延辺朝鮮族自治州の冬は厳しい。1月末から2月にはマイナス15度になることもある。そして雪もよく振る。この地方の冬を越えるのは大変なのだ。チャンホは故郷の街で、家を失い路上で暮らす人々が極寒の中で凍死しているのをよく目にしていた。この服のおかげでどうやら凍死からは免れそうだ。

 着替えが終わると、チャンホは闇夜の中を出発した。洗濯物が無くなっていることに気付いた人が騒ぎだす前に、この村から少しでも離れなければならない。延吉は北のほうにあると聞いた。それを頼りに北方へ向け歩き始めた。何時間歩いたのか判らないが、あの村から大分離れたことは判った。

 一息つくと急に疲れが出た。道を離れ山の中へ入ってしばらくしたころ、チャンホは休むのにちょうどいい岩陰を見つけた。チャンホはここで一夜を過ごすことにした。そこに腰を下ろすと急に空腹を感じた。昨日北朝鮮を出てから今まで何も口にしていなかった。少ない食糧だったが食べないと体が持ちそうになかったので食べるしか無かった。

 食べだすと止まらなかった。気がつくと持っていた食料のほとんどを食べつくしていた。しかしここは中国である。物の少ない北朝鮮とは違う。何とかなると気を取り直した。

 腹が満ちると眠くなった。周囲を見ると、そこはやや窪地で枯れ葉が溜まっていた。チャンホはこの枯れ葉をかき集め、その中に体を入れた。厚手の服と枯れ葉で寒さはなんとしのげた。

 明日はどうなるのか不安はある。しかしその時チャンホの胸の中にあったのはオンマ(母さん)に会えるという希望であった。その希望が不安を打ち消した。そして首尾よく服と靴を手に入れた安堵感の方が大きく、瞬く間に眠りに落ちた。

 その声に気付いたのは、眠りに就いたから数時間後のことであった。あまり遠くないところから何か声が聞こえた。その声がチャンホの眠りを破った。それは犬の遠吠えの様だった。野犬の群れが近くにいるのか? それともオオカミか? この地域は白頭山の山麓の森に近く、そこにはオオカミの群れが棲んでいることを聞いたことがあった。

 チャンホは一気に緊張した。野犬でも相当に危険だが、オオカミだったら万事休すだ。その遠吠えはやや遠ざかっているように思えたが、とても安心出来る状況ではなかった。

 その夜は結局それから眠ることはできなかった。明け方近くになりその声は聞こえなくなった。安堵感がどっと溢れた。と、同時に睡魔に襲われ、チャンホは深い眠りに着くことになった……。
(つづく)

 

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(取材・ジャーナリスト浪城暁紀 構成・小野登志郎)

■延吉の街でコッチェビと接触

 思わぬ逮捕劇があってから2~3日は何事も無く過ぎた。この時私は友人が手配してくれた脱北者との接触を待っていたのだ。 

 4日が過ぎた夕刻、協力者から連絡が入った。今夜脱北者と会えるというのだ。夜9時過ぎ、我々は協力者と供に待ち合わせの場所に向かった。そこは喫茶店であった。店はすでにしまっていたが、協力者は「オモニ、オモニ」と表から声をかけた。どうやらこの店は協力者の母親がやっている喫茶店のようだった。すぐに50過ぎの婦人が出てきてドアの鍵を開け我々を中に導いた。その薄暗い店内に一人の中学生ぐらいの少年が座っていた。服装は何となく薄汚れた印象だった。「これがうわさに聞いたコッチェビか、コッチェビから話が聞ける」こう思うと私の胸は高鳴った。

 コッチェビとは朝鮮語のコッ(花)とチェビ(ツバメ)を合わせた造語で直接訳すと花ツバメとなる。しかし、その意味するところは美しい語感とは裏腹に悲惨な浮浪児である。

 コッチェビ関してはアジアプレスの石丸次郎氏が訓練したという脱北者出身のビデオジャーナリストが北朝鮮に潜入して撮影された映像がある。彼らの真実の姿を映しだしたこうした映像で、彼らの存在は世間に広く知られることとなった。市場を徘徊する彼らの悲惨な姿は視聴者から大きな反響を得た。

 また、同じジャーナリストが撮影し2010年に放映された。「クローバーを食べる」という証言で衝撃を与えた痩せこけた20代の「コッチェビ」(浮浪児)女性もまた衝撃を与えた。一時は減少したとコッチェビだがこの映像でも明らかなように現在再び増加の傾向にあるようだ。北朝鮮の経済改革(それには政治改革が不可欠だが)が進展しない限り、こうしたコッチェビが無くなることは決してないであろう。

 協力者はそのコッチェビと我々を促し、二階に上がっていった。2階には個室があった。延吉の喫茶店にはこうした造りのものが多く、個室は4~5人が座れるスペースがあった。コッチェビは節目がちに座っていた。

 我々はコッチェビから様々な話を聞くこととなった。その話は衝撃的なものであった。

 彼の名前はキム・チャンホ(14歳)で、北朝鮮の茂山(ムサン)で暮らしていた。茂山というのは国境の河、豆満江のほとりにある鉄鉱石を産する鉱山町である。埋蔵量は豊富で、現在はそれに目をつけた中国企業に開発権を買収されたようである。

 チャンホ少年の父親は鉱山労働者であった。しかし、2000年頃には給料はほとんど払われず、従業員への給料支給に悩んだ支配人は、鉱山設備をくず鉄として中国に売ることでしのいでいたという。

 しかし、それも底を着き、ついに給料は支払えなくなったという。当時、配給はすでにストップし、人々は闇市で買う僅かな食糧で糊口を凌いでいた。しかし、給料が貰えず金のない労働者一家は路頭に迷うしかなかった。チャンホ一家では、まず父親が食料を求めて地方の親戚を尋ねる旅に出た。しかし彼は一年たっても帰ってこなかった。母親とチャンホと2歳上の兄の3人家族は、家財道具を売ったり、物乞いをしたりして何とか命を繋いでいた。それも限界が来た。母親は中国に出稼ぎに行くと言い残し家を出た。残された兄弟は母の妹である叔母の所に預けられたという。

 半年が経ったころ、母親が延吉で働いているのを見たと「出稼ぎ脱北」から帰ってきた近所の知り合いから聞いた叔母が告げた。それを聞いた兄弟は、もうすぐ冬が来る。豆満江が凍れば渡りやすくなる。その時が来たら中国に母親を探しに行こうと誓いあった。


■凍った豆満江を越えて中国へ

 チャンホ兄弟が脱北を考えていた頃は、北朝鮮が未曾有の飢饉を国際援助で何とか切り抜けていた頃であった。しかし、平壌から遠く離れた北部の威鏡北道、両江道などでは状況はほとんど改善されなかった。食糧難は極限まで進み、街には餓死した人が溢れていることが脱北した人の証言で明らかにされていた。

 確か2001年頃の出来事だったと記憶しているが鴨緑江の源流域の両江道のある町で、人肉を料理して客に出した店が摘発されたというニュースが韓国経由で流され。この店を経営する夫婦は自分の幼児を殺し、食肉として客に出していたというのだ。この夫婦は保衛部に摘発され死刑になったと報道された。この他にも人肉事件は何件も報告されている。労働災害で体が不自由になり、警備員として働いていた男性は飢えに耐え切れず、同僚をおので殺害した後、遺体の一部を食べ、一部は市場で「羊肉」として販売していたところを摘発されたという報告もある。

 この頃の北朝鮮では人肉事件はありふれたものだったという話を脱北者から聞いたこともあった。貧しい北部ではまさに“生き地獄”とでも形容するしかないような状況にあったようである。またこの頃、豆満江で脱北に失敗した人の死体が流れているのを見たという報告が数多くなされている。彼らは川には入ったが警備兵に見つかり、射殺されたか、深みに足を取られ空腹で力尽きそのまま溺死した人々の姿であった。

 一説によれば、当時二百万人以上が餓死したと言われている。北朝鮮の人口が二千万強だから、国民の約一割が餓死したことになる。これは国家としては存亡の危機に立ったということである。しかし、不思議なことに北朝鮮を牛耳る金正日政権が倒れることは決してなかった。これには数々の要因があるが、その詳しい分析は専門外なのでここでは深い追及は避けておく。

 しかし、一つだけ言えることはこの事態が戦争末期の日本と非常によく似ていることだ。国民を戦争に巻き込み軍、民合わせて数百万もの死者を出した軍部、そしてその頂点に立つ天皇を国民は破たんの日まで決して批判せず、彼らの意のままに従っていたのである。「欲しがりません、勝つまでは」という標語は今の北朝鮮にそのまま当てはまる。これは東北アジアの特性なのであろうか。この解明が北朝鮮の謎を解くカギになると思われるが、それは自分を含め未だに未解決の課題のままである。

 そして、チャンホとその兄の「その時」がやって来た。
 (つづく)

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■上海の日本人ワーキングプア

 2011年の4月中旬、上海で生活している日本人の青年、山口洋介さん(仮名・31歳)と話をした。

 山口さんの身長は160センチくらいと小柄だ。時々変な咳をするのが心配だ。わたしたちは、上海市の万航渡路と長壽路の交わるところのスターバックスでまずは会った。この近くに彼の自宅があると言う。彼の自宅は1Kで2500元。窓ガラスが割れ、さらに壁が剥がれ、風呂が黒く汚れているため入れないという。彼が今務めている会社の前任者が使っていた部屋だという。わたしたちは、山口さんが行きつけの、日本人が経営するバー「SIS」に移動した。山口さんは言う。

「上海に来て半年くらいになる。仕事は日本系の広告代理店。日本の企業から仕事を受注して上海で物産展を開くアレンジをしたり、広告を打ったりする。会場の設営、人の手配、また日本の会社に対して中国でのビジネスについてアドバイスもする。会社は18人くらいで日本人は5人。給料は1万元です。中国人の給料の水準から言えば悪くはないですが、上海に住む日本人の給料としては底値に近いんです。そのうち2500元が家賃で、それを含めて生活費が6000元かかるので、手元に残るのは4000元。移動は基本、地下鉄ですが、タクシーも使っています。休みの日には、飲み屋やクラブに遊びに行くこともありますよ」

 山口さんの生まれ故郷は中国地方のある小都市。中学校までは目立たない子供だったという。高校では第一志望の公立校に行くことはできず、私立の学校に行った。中学校の同級生と離ればなれになり、そこが「目立つチャンス」と考えた。

「自分が何か新しいことをしたいと思っても、普通は恥ずかしくて止める。でも新しい環境なら恥ずかしいなどと考える必要がないと思った」

 週に1度、私服で登校する日があり、そのときにエルビス・プレスリーのようなひらひらの付いた服で登校。周囲から浮いていたが、首尾よく目立つことができたので、悪い友達と付き合うようになった。高校2年生の時、キセルで広島まで行き、馬券売場に行って初めて馬券を買った。しかし、未成年だったので警備員に捕まってしまう。その後、武豊が自分が好きだった女優と結婚したことで、「自分も」と奮起しジョッキーを目指すようになった。

 もともと小柄だった山口さんは、43キロまで一気に減量し、レーシックの手術を受けて試験に臨んだが、過剰な減量が祟って栄養失調になり、視力が逆戻り。ジョッキーになり損ねてしまう。

 それでも「オレはジョッキーになる」と家を飛び出し、福井の牧場で馬の乗り方を学んだ。さらに佐賀に移動し、馬の仕事に携わるようになる。佐賀では仲間とともにレクチャーを開催する会社を立ち上げるが、あえなく失敗。その直後、中国で競馬が解禁されるとの情報をキャッチし、単身船で青島に渡る。そこから24時間かけて武漢に行き、できたばかりの巨大な競馬場を目撃する。

 その後、ライブドアのインターンシップ制度を利用して大連のコールセンターで働くようになる。仕事内容は、中国系のパソコンメーカーの日本語応対だった。従業員は3000人くらいいたが、日本人は10人くらいだった。だが、大多数の中国人が日本語を話すことができ、山口さんは中国語を使う必要がなかった。そして、山口さんはそのとき出会った日本人女性と付き合うようになる。当時の月給は3000元。生活するのにぎりぎりの額だった。生活費が足りない日本人は、持ってきた貯金の日本円を崩すなどして、なんとかしのいでいたという。

 その後、インターンシップの期限が切れた。山口さんは、そのまま大連に残り、コールセンターで2年ほど働いた。そしてシンガポールの友人から、「日本人で馬に乗れる奴を探している」という話を聞き、今度はシンガポールへ行った。彼女とは遠距離恋愛を経て、結局別れることになったという。

 シンガポール滞在中、実家の父が危険な状態だとの知らせを受けて、日本に戻った。戻ってすぐに父は亡くなるが、半年くらいは故郷にいた。

 そこで居酒屋のアルイバイト始めたが「18歳の若造に、こき使われた」。ショックを受けたという。山口さんは中国大陸を飛び回り、そこで仕事をしてきた。シンガポールにまで行った。

 しかし、居酒屋の仕事のことについては、「確かにそいつのほうが詳しい」と諦めつつ彼はつづけた。


「『あれ持ってきて』『そうじゃない、違うって』と怒鳴られました。でも腹は立たない。腹が立つのは周囲の女性に『あのおっさん、若い奴に怒鳴られてるよ』とか思われるのが嫌だった。
 でも、本当は他人は、それほど自分のことを気にしてない。日本にいると同級生との社会的ポジションの差というものを感じた。同窓会などで飲みに行っても、高い店に行かれると困る。割り勘にしてもらっても払えないことがある。だから、わざと終了30分前に帰り、『山口はあまり飲んでないからいいよ』と言ってもらい、支払いから逃れた」

 故郷での山口さんの月給は、5万円くらいしかないこともあり、一日の食費は100円まで切り詰めた。大きなパンを買ってきて、少しずつかじり空腹感を紛らわしたこともあるという。
 山口さんは、日本ではどんなに頑張っても駄目だと思い、再び中国へ行くことにした。今度は上海の広告代理店で働くことになった。しかし山口さんは、上海のことがあまり好きではないという。

「何もかもがゴチャゴチャしている。でも、あと数年は上海にいるつもり。次は香港などに行きたいと考えているが、日本に戻るという選択肢は無い。日本は、一番駄目。もちろん日本のことが嫌いなわけではない。武士道や『気合いを入れる』という日本独自の精神は、すばらしいと思う。大震災が起きた時に日本にいたら『何かできることはないか』と被災地に向かっていたかもしれない。何もできないかもしれないけど、何かやらないと始まらない。それはどこにいても同じ」

 山口さんは「何か表現することをしたい」と言う。日本では自分を表現することはできなかった。とも。

 現在の彼の目標は、近々解禁されるという中国での競馬に絡み、日本から輸出される馬の橋渡しをする会社を立ち上げることだと言う。

「日本の馬は、今では世界的に有名。ドバイで一等を取ったりしまいたからね。今僕がやっている仕事は、それに繋げるためにやっている。中国のビジネスを知り、自分のビジネスに繋げたい。ただ、今は同じ目標を共有する仲間もいないし、準備があまりできていない状態。上海ではそれほどいい暮らしはできていない。日本の商社駐在員は、上海など中国各地で豪遊しているらしいが、自分はそんなレベルにはほど遠い。でも嫉妬してもしょうがない。自分の給料はたったの1万元だが、農民工などと較べると遙かにいい暮らしができているし、日本に居た時よりも充実している。

 中国人の未熟さにイライラすることはしばしばありますよ。財布を盗まれたこともあるし、詐欺に遭ったこともある。地下鉄の扉の前で、なぜ出てくる人を待てないのか。でも受け入れなければいけないと思うようになった。苛立ったところで現状を変えられるわけではない。それは自分の境遇にしても同じ。ミクシィの上海コミュニティでは『ろくな能力もないくせに、日本を飛び出してきたアホな日本人』などと、自分のような境遇の人間が揶揄されているが、『そうだよ、その通りだよ!』と思う。そういう人に自分の人生について説明しても理解してもらえない。ただ自分は目標を持つことで、生きるためのモチベーションが保たれていると感じる。

 自分には集中力がない。短時間なら集中できるが、長い間は無理です。中国語の勉強にしても、モチベーションを保つために、中国語を使う目的で女の子のいる店に行ったりした。今は、たまにクラブに行くだけだけど」

 山口さんは最近、物産展でアレンジした中国人の女の子に連れられて上海のクラブに行った。この中国人の女の子にはフランス人の「彼氏」がおり、クラブに行くと10人くらいの男女混合のフランス人がいた。全部で10万円くらい使ったが、彼は割り勘で1万円だけ払った。女の子は西洋人好みの「アジアンビューティ」な感じだったが、仕事ではおとなしく、物産展ではただの売り子。その子がクラブで派手に遊ぶのが面白いと思ったという。

 山口さんは中国上海で、まさに浮遊していた。
(つづく)

 
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 中国の携帯電話は安く、日本人でも身分証明書無しで簡単に買える。わたしは近くのデパートで売っていた一番安いLGの機種を選び、それが248元(約3200円)。1.5元/分で、100元分使えるSIMカードが180元だった。探せばもっともっと安い携帯電話もある。こういった廉価で足が付くことのない携帯電話を使って、日本で頻発している「振り込め詐欺」を行っている。実際に福建省で、中国人が日本人を雇って「振り込め詐欺」の電話を掛けさせていた件が摘発されたこともあった。

 そんな携帯電話でわたしが連絡を取ったのが「虞」という中国人の男だった。

 虞は88年に来日し、99年まで日本にいた。はじめは留学生として東京に行き、学生時代から雑誌のライターをしていたと言う。

「新宿歌舞伎町はよく取材しました。ゴールデン街は、今も東京に行くたびに訪れています。ライターとして本を書いたこともある。でも、今はテレビ関係の仕事をしています。近々、上海メディアグループという上海ナンバーワン、中国全土でCCTVに次ぐテレビ局で番組を立ち上げ、日本のスタッフを使ってバラエティ番組を制作します」

 虞もまた、成功した来日経験のある中国人の一人だ。今は東京と上海に会社を設立し、本業のテレビ関係の仕事以外にも、不動産や車などブローカーまがいの仕事もしているという。虞は言う。

「日本人の中国での音楽ビジネスに関する認識はおかしいです。ある曲の権利を中国側が『買いたい』と言うと、『海賊版が心配だから売らない』と言う。でも実際には『売ってないから海賊版が出てくる』のです。売りに出した後で海賊版を訴えればいい。また、『中国では人脈が重要』と言われますが、人脈さえ作ればいいというわけではない。最初から人脈構築に偏重しすぎて、失敗するケースも多々ある。日本人ビジネスマンは、中国のことをまったく勉強せずに飛び込んでくる人と、いつまでも中国のリサーチばかりして飛び込めずにいる人の2種類に分けられます。音楽業界は、リサーチは半年もしたら無意味になるので、次のリサーチに入ることになる。そして、いつまでもリサーチばかり続けなくてはならないとなります。決定のスピードがとにかく遅い」

 虞は中国に進出している具体的な日本の音楽・芸能関係各社の名を上げながら、その批判を繰り返した。

「日本は、コンプライアンス国家化していますからね」とわたしが言うと、虞は少しだけ皮肉な顔をして笑い、「そんなこと言っていたら、いつまで経っても中国でのビジネスは成功しない」と言った。

 2011年4月当時の虞の試算だが、中国の映画の市場規模は100億元だという。そして毎年40%以上増えている。そんな中国市場に対して日本映画は年間1、2本しか入らない。最近入った映画は『GOEMON』だという。そもそも外国の映画は中国に年間40本しか入らない。うち20本がハリウッド。残り20本をヨーロッパやアジアなどが取り合うという構図だ。そのほとんどが有名監督の映画ばかりで、マイナーな映画が入る余地はない。

 90年代に『101回目のプロポーズ』『東京ラブストーリー』といった日本のドラマが中国に輸入された。人気が出て、ドラマの出演者に中国のCMへの出演が打診されたが、日本のCMギャラよりも少し安いという理由でほとんどすべて断られたという。直後に韓国のドラマや映画が入ってきて、韓国人俳優は中国で一気に知名度を上げた。

 韓国は国を上げてコンテンツの輸出を支援。輸出する作品には補助金を出していた。そのため日本のコンテンツは人気が無くなり、輸入できなくなった。日本はテレビ番組のフォーマットをもっと売るべきだったと「親日派」の虞は言う。ヨーロッパなどは積極的に売っている。日本がヨーロッパに売った番組が、ヨーロッパを経由して中国に入ってくることすらあるという。

「中国では、日本のあらゆるコンテンツが盗まれている。もっと日本人も中国で稼ぐことを考えて欲しい」

 虞はそう強調した。

 2012年7月現在までに、日本の音楽・芸能関係者はどれほどの数が中国に攻めのぼっていったのだろう。正確なデータを持ち合わせていないが、虞のような中国人芸能関係者とやり合っている日本人業界関係者は、増え続けていることだろう。それだけは間違いは無い。
(つづく)

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http://www.mag2.com/m/0001552211.html に掲載した記事に少し手を加えました)

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