小野登志郎のブログ

出版・ウェブの制作会社(株)小野プロダクション代表で、ノンフィクション・ライターの小野登志郎です。徒然にゆる~く書いていけたらと思ってます。

2012年08月

 この事件に対し中国中央政府は、即座に中国人の羅津入域全面禁止の処置をとったのであった。さらに、この事件には「おまけ」が付いた。この禁止指令により、それまで吉林省主導で推進されていた羅津-先鋒自由経済貿易区の建設が全面的にストップしてしまったのであった。そしてこれに懲りた吉林省政府は、しばらく静観の状態に入ったのであった。

 そしてそこにはもう一つ金正日の壁があった。金正日は口では合弁事業を推進すると言いながら、そこから“自由”の風が国内に浸透することを恐れ、事業を積極的には推進しなかったのである。つまり羅津・先鋒開発は事実上この10年棚上げ状態だったのである。

 しかし、昨年12月の金正日の突然の死で事態は一変する。後を継いだ金正恩第一書記は経済改革シフトと思われるサインを次々と発している。8月になり金正恩の叔父で、彼の最大の後ろ盾と見られている張ソンテクが中国を訪問、羅津・先鋒開発区、と鴨緑江河口域にある黄金坪経済開発区の中朝共同開発の進展を表明したが、これはサインに止まらず経済開発が実行に移されたことを意味している。今後この動きはしだいに加速されていくことだろう。これまでそこに立ちはだかっていた金正日はもう居ないのだから。

 さらにこれは、7月の朝鮮人民軍トップの李英浩の解任とも密接にリンクしている。北朝鮮の経済開発に楯突く軍強硬派の排除がその真相であろう。恐らく、近々中国による羅津港の使用が現実のものとなるであろう。そうすると中国、特に吉林省は羅津港を自由に使えることで、日本海に向けた製品の積み出しは飛躍的に伸ばしていくであろう。実際、吉林省は長春から琿春までの高速道路を完成させた。これにより長春~琿春間は3時間ほどでいけるのである。さらに吉林省は琿春と羅津を結ぶ道路の整備を開始している。

 そして琿春は、極東における鉄道の要衝でもある。琿春は鉄路で長春、大連、瀋陽とも結ばれているし、極東ロシアの各都市とも結ばれている。そして北朝鮮ともまた結ばれているのである。先に述べた琿春市、そして図門市からの北朝鮮観光には鉄道を使うコースもあり、これまた北朝鮮への鉄道輸送のシュミレーションの役割をも担っている。

 つまり北朝鮮の羅津港への輸送は、道路、鉄路の双方で行うことが可能であり、そのインフラ整備は吉林省政府が行っているのである。

 日本海へのロジステイックはロシアルート、北朝鮮ルートの双方とも完成間際であると言える。残されているのは羅津港の港湾整備くらいで、これもすでに吉林省主導で手がつけられている。

 吉林省主導で行われている極東金三角のインフラ整備はほぼ最終段階に入っているようである。2013年には延辺朝鮮族自治州長春はもちろんとなりの遼寧省、黒竜江省を結ぶ鉄道網が完成する。これで極東金三角のロジステイックは完成となるのである。

 そして、神豊信息技術(延辺)有限公司~延辺におけるトヨタ系の先験的取り組みである。

 この地が持つもう一つの利点は、北朝鮮の安価な労働力の利用が見込めることにある。琿春市ではすでに10年ほど前から、経済特区が作られすでに中国と日本、韓国、ロシアとの合弁事業が展開され大きな成果を生んでいるが、日韓企業は北朝鮮労働力の活用を見込んでこの地に進出しているのである。

 2006年に設立されたソフト開発会社神豊信息技術(延辺)有限公司という会社がある。この会社の親会社はシンポー情報システム株式会社といい、神奈川トヨタから分離独立した情報システム開発企業で、このシンポー情報システム株式会社が100%出資している。主な取引先はトヨタ系列の自動車ボディーメーカー、関連自動車部品工場、紡織などで、トヨタ関係の工場や販売店用受発注システム開発を主な業務としている。また北京を通じて広州トヨタの仕事も受託しているという。事業の割合で見るとトヨタ系は3割以上を占めている。

 ソフトウエア開発会社にとって優秀な人材確保はその命運を決する重大アイテムである。だが現在の日本は尐子高齢化などもあり優秀な技術者の採用が困難となりつつある。そこで人材確保を目指して延辺に進出したのである。同社が延辺を選んだ大きな理由は、延辺には日本語の達者な朝鮮族が多いこと、さらに優秀な高校生の多くは地元の延辺大学に進学するが、この大学にはコンピューター学部があり優秀な学生を数多く送り出している。つまり延辺は日本語能力に長け、同時にITに強い人材の宝庫なのである。中国東北部進出にあたっては、大連はもちろん、瀋陽、長春が候補に当たったが、最終的に延辺朝鮮族自治州の延吉市に決めたのはここの人材に目をつけたからである。会社は最近では延辺朝鮮族自治州政府からの発注も得るなど、延辺での存在感を強めつつある。

 このようにトヨタの系列会社は早くから中国東北部における事業展開の要としての人材確保を進めてきたようである。そしてこの動きは大連、長春を中心として展開されている日本企業のBPO(Business Process Outsourcing)ブームを先取りする形での展開である。神豊信息技術(延辺)有限公司はその中核に位置づけられているようだ。

 ところで延辺は図門江をはさんで北朝鮮と向き合う場所である。その北朝鮮にも自動車産業が成長する可能性もないわけではない。北の自動車産業の実態はいまいちはっきりしないが、初めての国産車である「フイッツパラム(口笛)」の生産を発表していることから、いちおうは車を作れる能力は備えているようである。つまり北朝鮮に自動車産業が進出するとしたら、無から始めるのではなくそれなりの基礎はあるということだ。延辺への進出は来るべき北朝鮮への進出の布石のひとつなのかもしれない。 

 とにかく、長春並びに延辺朝鮮族自治州を中心としたトヨタの動向から、当面、目が離せない。
(了)

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▼第09号
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                       2012/08/30
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    ~牡羊座が見たディープな出来事とスターたち~

Vol.09

毎週木曜日発行
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【今週の目次】

1. アジア最大の親日国インドネシアでの日系企業の現状
  インドネシア経済を牽引する自動車産業と日本の存在感
  インドネアシア青年の日本ブランド愛好力
  インドネシアの親日に大きな功績を残した日本人イスラム兵士
2.『北米からの手紙 王子様の童貞ごっこ-ファンガールに愛の花束を』(内藤茗)
  アメリカンアイドルたちの「処女幻想」と「童貞幻想」
  ディズニー戦略が生みだす「永遠の若さ」というひずみ
3. 『韓流爺やの韓国エンターテイメント散歩』(浪城暁紀)
4. 『わたしが出会った北朝鮮人』
  逞しき脱北サバイバルおやじ
 「ミエ、スズカ……」「俺の妻は日本からの帰国者だった」
5. 『ジャニーズの今と未来』(KAZMA)
  「舞台、ミュージカル事務所としてのジャニーズ。その突出性」
6. 『中国・台湾の芸能最新事情――日本に「華流」「台流」ブームは来るのか』(松野幸志)
  会いにいけるアイドル「ウェザーガールズ」
  長澤まさみ台湾ドラマ主演の意味するところとは?
7. 『世界を動かしているのは腐女子である!』Journal retriever(浜本菜織・岸友里)
  第一回「世界を動かす腐女子の繋がり」
8. 小説『名をば捨てよ――武田信玄暗殺計画』(横山茂彦)
9. 『あわいの小骨』(伊藤螺子)
  オムニバス小説『樹木葬』
10. 『松田健嗣の建築よもやま話』(松田健嗣)
  「想起の問題、感情の問題」と「透明性」2
11. 『東方神起とJYJについて』 
12. 『続・龍宮城 果てしなき日中闇のオセロゲーム』
  中国人強盗団の最後
13. 編集後記 「理解しがたい存在」との邂逅と理解

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 もう一つの重要な事実は、吉林省が中国の北朝鮮取り込みの先陣を切っていることだ。北朝鮮の羅津・先鋒経済特区の開発を主導しているのは吉林省であり、羅津の港湾の使用権を持っているのも吉林省なのである。つまり吉林省との関わりはその先に極東ロシア、北朝鮮の市場、または生産拠点の確保へと繋がるというわけである。

 この点にこそ、トヨタが、マイナーな感じがいまいち抜けない吉林省を選んだ大きな理由であると思われるのだ。

 すでにこの地では、中朝露に日韓を加えた5ケ国の経済交流が着実に進行している。そして、その“極東金三角”の生命線となっているのが、日本海を通して中朝露と日韓を結ぶ“黄金水路”だ。

 この“黄金水路”の隠れた中心となっているのが延辺朝鮮族自治州の琿春市という小さな街だ。琿春市の半径2百キロの範囲にロシア、北朝鮮の10個の港が分布している。地理環境に注目して中国は琿春市を“黄金水路”の要として重点的に開発してきた。

 吉林省長春で第一汽車と合弁で事業展開を進めているトヨタは、中国東北部と日本海経由で日本を結ぶこの地の将来を見越して、この地に進出したのだと考えても良いだろう。琿春市は琿春通商口と琿春鉄道通商口とでロシアと通じており、中国で生産された製品は、ここからロシアのザルビノ、ポシュット経由で韓国、日本に搬送される。このルートは、吉林省が国際港湾を活用して日本海に構築する事業の一環としてその整備に邁進しているのだ。

 トヨタに限らず東北で事業展開している日系企業が注目しているのは、4月24日長春市で締結された、琿春-ザルビノ-新潟を結ぶ国際陸海輸送ルートの相互代理契約だ。この契約は、中日露を結ぶ日本海横断航路の運営に始まる日本海『黄金水道』の新展開を意味しており、日中韓ロシア、さらには北朝鮮を含めた、来るべき極東FTAを先取りするものである。5月に開催された日中韓3カ国首脳会議(日中韓サミット)で、日中韓の自由貿易協定(FTA)について「年内の交渉入り」で合意したのも、この水路活用にめどが付いたからである。この“黄金水路”を使えば輸送コストは大幅に削減できる可能性がある。

 そしてもう一つは北朝鮮との関係だ。

 現在吉林省は先行的に北朝鮮との経済交流を積極的に展開している。琿春市西南は図們江を挟んで北朝鮮の咸鏡北道と向き合っており、北朝鮮との交易の重要な経路となっている。その窓口が圏河通商口と沙坨子通商口だ。 圏河通商口の向い側は、吉林省が50年間の租借契約を結んだ北朝鮮の羅津-先鋒自由経済貿易区に直接繋がっている。

 最近、琿春市と北朝鮮を結ぶ観光が再開されたが、この旅行事業は来るべき吉林省と北朝鮮の自由往来を想定しながら、そのシュミレーションもかねて行われようとしているようだ。実は吉林省は、北朝鮮との観光事業では痛い経験を持っている。北朝鮮の羅津には吉林省からの観光客を見込んでカジノが作られていた。このカジノ事業の要となったのは故金正日総書記と親密な関係にあったマカオのマイケル・フオ―であった。このカジノは人気を得た。国内での賭博事業を禁止している中国ではありえないカジノが車で日帰りできる位置に出来たのである。

 まず、延辺朝鮮族自治州の幹部がこれに嵌った。そして吉林省中央政府の幹部までが煩雑にこのカジノに出入りするようになった。

 そんな時、重大大事件が起こった。カジノに延辺朝鮮族自治州政府幹部が政府の金を横領しカジノにつぎ込んでいたことがバレたのである。この幹部は逃亡したが、安全部は彼を追跡し逮捕した。実はこの事件は単なる横領事件に止まらず深刻な問題が背景にあった。それは北朝鮮情報部の関与である。あくまで推測に過ぎないがこの自治州幹部は北朝鮮に嵌められたのではないかという“疑惑“である。北朝鮮はこの手の仕掛けはお手
のものである。そしてこのカジノは北朝鮮トップの金正日と親密な関係にあるマカオの賭博王が運営していたのだから、その”疑惑“もあながち穿ち過ぎとはいえないものであった。つまりこの事件は単なる公金横領ではなく国家の保安に関わる案件だったようである。

(つづく)

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 第9回トクマ・ノベルズEdge新人賞を受賞した伊藤螺子さんの小説『電車』です。有料メルマガで連載中です。
 
■『電車』 

 ことことと軽い振動を後頭部に感じて、少女は目を覚ました。いつの間にか床で寝入ってしまったらしく、全身が軋んでいる。薄闇の中に見えるのは、消えたままの電灯と天井の木目だけだ。楽しい夢が途中で打ち切られてしまったような寂しさが胸に残っていたが、見た夢の内容も、そもそも夢を見ていたのかすらも思い出せなかった。
 再び目を閉じたが、振動は小刻みに近づいてきて、少女の歪んだ鼻を揺らす。痛みに顔をしかめて身を起こすと、床についた手のひらがぴりぴりと震えた。何か小さなものが床の上を転がっているようだ。
 目の前の白い壁紙に、自分の影がぼんやりと映っている。自分の体よりふた回りは大きい影。寝ぼけまなこでしばらくそれがゆらゆら動くのを眺めていたが、なぜ真っ暗だったはずの部屋で自分の影が見えるのかに気づいて少女は振り返った。
 同時に床の震えが止んだ。自分の背中を照らしていた小さな光源を、少女はまじまじと見た。電車だ。模型のようなサイズの2両編成の電車が、さっきまで少女の頭が横たえられていたあたりに停まっていた。車内から煌々と漏れる光と、小ぶりなヘッドライトが車体の周辺数センチを照らしている。学校に行く時に使っているローカル線のようにも、昔家族旅行に行った時に知らない駅で乗り込んだ古い電車のようにも見える。
 家族旅行。そんなものに行ったこともあったんだな、と少女は驚きとともに思い出す。どこへ行ったのかも、今よりだいぶ若かったはずの親の顔も、濃い霧の向こうの遠い場所に置き去りにされているようだった。
 身を屈めて中をのぞいてみた。実物をそのまま豆粒ほどに縮めたと言ってもおかしくないくらいに精巧な造りのボックス席がいくつも連なっているが、客はひとりもいない。
 運転席に目を向けると、不意にそのドアが開いた。親指にも満たない背丈の、制服に帽子という出で立ちの運転手が、身軽に床へ降り立つと、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。ライターの火は遠くの星のように小さく瞬いてすぐ消える。
 少女に気づいて、運転手は顔を上げた。
「こんばんは」
 自分はまだ夢を見ているんだろうか。本当はまだ眠っているのではないだろうか。
 運転手は、知り合いと世間話をするような気安さで言った。
「少し冷えますね」
 小さい割には低い声だった。少女はおそるおそる返事をする。
「ええ、まあ。秋だし」
「いい季節になってきました。寒い方が煙草がうまいですからね」
 ふうっ、と運転手の吐き出した匂いのしない煙が、自分の顔まで届かずに溶けていく様を、少女は静かに見つめる。
 いい季節なものか、と思う。自分の生まれた日が近づいてくる度に、少女の気は滅入った。生まれたのを祝福されていた頃のことを思い出すのは嫌いだった。
 吐く息に飛ばされないよう運転手が身をこわばらせているのに気づいて、少女は口をすぼめる。
「ところで、大丈夫ですか。病院に行かれた方が」
 逆光で表情は伺えないが、運転手が鼻を見つめているのがわかる。おそるおそる触れると、鈍い痛みが走った。舌を唇の上まで引っ張りあげて舐めてみる。まだ鉄の味が残っている。
「……明日行く。救急車呼んで騒ぎになったら嫌だし」
 そうですか、と小さな声でつぶやき、運転手は先ほどと逆のポケットから取り出した缶のような灰皿の蓋を開け、煙草をもみ消した。
「ねえ、なんなの、この電車。おもちゃみたい」
「電車は電車ですよ。駅から駅へ人を運ぶ」
「ここあたしの部屋だって。駅じゃないよ。線路もないし、なんか電車小さいし」
「いえ、駅です。現にあなたがここでお待ちだったじゃあないですか」
 不思議なことをおっしゃいますね、とでも言いたげに運転手は肩をすくめたので、少女はそれ以上聞くのをやめた。夢の中での会話に意味を求める方が間違っている。
 少女は黙って電車を見つめた。車窓から漏れる光をただじっと前にしていると、いつまででも見ていられるような気がする。
 察したように、運転手が声をかけてくる。
「お乗りになられては」
 少女は思わず、うん、と返事をしそうになるのを喉元で止めた。なんの気なしに発されたようで、その声はあめ玉を持った誘拐犯の誘いのような、甘くて冷えた響きが含まれているように聞こえた。
「……乗れないよ。見ればわかるでしょ」
 一方で、夢の中なら小さくなって乗り込めるかもしれないな、と思いながら少女はつぶやく。運転手は残念そうなそぶりも見せず、穏やかに言った。
「そうですか。今日はこれが最終ですが」
「また来るの?」
「また来ますよ」
「そう。ここからどこへ行くの」
「あちらの方ですが」
 つまようじのように細い腕で、運転手は暗闇に沈む部屋の入り口の方を指した。
「……やめた方がいいよ」
「おや、それはどうしてでしょう」
「あっちは……怪獣がいるから」
 帽子のつばの下で、運転手がふっと笑ったようだった。
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」
「……そう」
 車体先頭の扉を開けて乗り込み、運転手はぴい、と小さく汽笛を鳴らす。出発の合図らしい。
「ねえ」
 少女が呼びかけると、運転手は扉にはめ込まれている窓を開けた。
「はい、なんでしょう。やはりお乗りになりますか」
「ううん、今は無理。でも、あたしがこれに乗れるくらい小さくなれたら、また来て」
 運転手はうなずくと、窓を閉めた。電車はフローリングの板の目に沿ってゆっくりと走り出し、部屋のドアをすり抜けて、消えた。少女はしばらくドアを見つめた後、再び硬い床に横たわった。
 1ヶ月後。
 息子一家がどのくらい荒れた家庭だったのかや、身内が加害者と被害者になった心境を尋ねるマスコミの取材攻勢がようやく落ち着き始め、久しぶりに居間の灯りとテレビをつけた少女の祖母は、やけに近くを電車が通る音を聞いた。
 最寄りの駅からは1キロ以上離れている。それに、その音は背後から聞こえた気がした。
 振り返ると、壁際の仏壇が目に入った。黒い額縁の中で孫が微笑んでいる。胸騒ぎがした。祖母は白い箱のひもを解き、収められていた壺の蓋を開けた。
 壷の中にあったはずの骨は、ひとつ残らず無くなっていた。

■伊藤螺子 小説家
第9回トクマ・ノベルズEdge新人賞を受賞し、『オクターバー・ガール 螺旋の塔に導くものは』で11年デビュー。
Twitter: https://twitter.com/thunderheadhour/
ブログ: http://itoneji.jugem.jp/

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 極東の輸送を劇的に変える“黄金水道” 中国東北部吉林省にシフトしたトヨタ

 トヨタは今、その生産と販売の主要拠点を、北米から中国へとシフトを変えつつある。このトヨタ中国戦略の扇の要にあたるのが、吉林省長春における「第一汽車」との合弁事業だ。

 トヨタはこれまでの中国自動車産業の中心であった上海、広州、天津などではなく、なぜ“辺境”である東北部の吉林省を選んだのか。

 実はここにはトヨタの深い思惑が見て取れる。
 
 現在、経済の減速が懸念され、同時に大規模な労働争議が頻発する中国から撤退する日系企業が増えつつある。だが、その中で東北部は違う様相を見せている。東北地方はかつての満州国の故地である。終戦当時この地には満鉄などかなりの資産が残されていた。特に遼寧省はそうであった。遼寧省は旧満州国の工場施設を活用し中国の軍事産業の拠点となっていた。中国の軍事産業の雄ノンリコなどは、ここに本拠を置いている。

 トヨタが合弁した第一汽車もそうした国営企業の一つであり、既得権に胡坐をかく傾向がなきにしもあらずである。第一汽車が本拠を置く長春はこれまで上海、広州、武漢、重慶と並ぶ中国自動車産業の拠点とされながらも、いまいち知名度のなかったのは、東北地方で独占的な地位をむさぼる国営自動車企業であるが故の弱点がもろに露呈していたからだろう。

 ところで、第一汽車もまた満州国の遺産の継承者(社)の一つである。満州に自動車産業を育てたのは鮎川義介率いる日産であった。第一汽車は日産の遺産を元に出発したのである。それから60
余年たった今、その第一汽車が日産のライバルであるトヨタと合弁するのも何か因縁めいたものを感じざるをえない。

 ところで東北三省は豊かな天然資源に恵まれていると同時に、労働力の面でもまだポテンシャルを有している。それにも関わらず東北三省が沿岸地域に比べ改革開放に乗り遅れた観が強かったことの第一の要因は、先に述べた軍需産業に代表される国営企業の既得権が強く民間企業の進出が遅れたことが挙げられる。彼らの“抵抗”は頑強で、新規の企業の進出は困難だった。これまで東北三省が沿岸地域からやや取り残されたきらいがあったのは、そうした理由からである。

 その一方で、新たな動きを誘発したのは日系企業の合弁事業展開だったといえなくもない。東北地方の経済を牽引するのは大連であるが、大連の工業力はその大半を日系の合弁企業が占めている。大連の成功は東北に新しい息吹を吹き込んだのである。そして東北地方の経済はまだまだ伸びる要素があるのである。

 ところで余談だが、東北地方は冬の寒さの厳しい地方である。それもあってこの地では、トヨタのランクルが絶大なる信頼を得ている。ランクルだけではないが、東北地方には車産業が伸びる可能性がまだまだ残されているのである。トヨタはホンダ・アコード、「上海第二汽車」が展開するアウデイの対抗車種として、カムリを前面に立てているが、今後はランクルの売り上げ上昇も期待されるところであろう。今回のトヨタの進出で長春が中国自動車産業の一大拠点として再び注目されるのは間違いない。

 しかし課題がないわけではない。先に述べたように第一汽車の国営企業的体質をトヨタが果たして変えられるか。その正否が今後を決定していくかもしれない。トヨタ方式が第一汽車の国営企業体質を吹き払うことができるのだろうか。

 トヨタの長春進出の動きは、中国を巡る自動車関連産業の新たな動きをも誘発している。トヨタの子会社であるデンソーは約16億円をつぎ込んで長春にカーエアコンの工場を開設した。NECエレクトロニクスは2008年7月に、100%子会社である日電電子(中国)が、車載半導体の拡販活動強化の一環として、吉林省長春市に支店を開設し、技術支援をはじめとした営業活動を展開してきた。これらは長春での活動は第一汽車向けの事業展開で、第一汽車の持ち株子会社である啓明情報技術への技術サポートが大きな地位を占めていた。

 NECに限らず、長春には第一汽車関連で多くの自動車関連メーカーが進出しているが、トヨタとの合弁で事業展開に拍車がかかることは間違いない。

 そうした動きは日系企業に限らない。2011年7月、ドイツの自動車部品メーカー、ハフ(Huf)は、長春に中国で4番目となる「長春ハフ・オートモーティブ・ロック社」の工場開設を発表した。この工場ではプラスチック成型、塗装の設備のほか、キー、ロッキングシステム、ドアハンドル、ステアリングコラムロックなど様々な生産ラインを備え、製品は周辺地域の自動車メーカーを中心に供給を目指している。その中にトヨタと第一汽車との合弁会社が入っていることは間違いない。

 日本と中朝露をダイレクトに結ぶ“黄金水路”がロジステイックを変えるその東北部で今、最も注目されているのが極東金三角と呼ばれる「中」「露」「朝」国境地帯だ。そしてこの地は吉林省に属する延辺朝鮮族自治州にある。延辺朝鮮族自治州は中国と極東ロシア、北朝鮮を結ぶハブなのである。

 すでにこの地は、極東ロシアの物資の仕入先として着々と実績を挙げつつある。
(つづく)

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