■上海の日本人ワーキングプア

 2011年の4月中旬、上海で生活している日本人の青年、山口洋介さん(仮名・31歳)と話をした。

 山口さんの身長は160センチくらいと小柄だ。時々変な咳をするのが心配だ。わたしたちは、上海市の万航渡路と長壽路の交わるところのスターバックスでまずは会った。この近くに彼の自宅があると言う。彼の自宅は1Kで2500元。窓ガラスが割れ、さらに壁が剥がれ、風呂が黒く汚れているため入れないという。彼が今務めている会社の前任者が使っていた部屋だという。わたしたちは、山口さんが行きつけの、日本人が経営するバー「SIS」に移動した。山口さんは言う。

「上海に来て半年くらいになる。仕事は日本系の広告代理店。日本の企業から仕事を受注して上海で物産展を開くアレンジをしたり、広告を打ったりする。会場の設営、人の手配、また日本の会社に対して中国でのビジネスについてアドバイスもする。会社は18人くらいで日本人は5人。給料は1万元です。中国人の給料の水準から言えば悪くはないですが、上海に住む日本人の給料としては底値に近いんです。そのうち2500元が家賃で、それを含めて生活費が6000元かかるので、手元に残るのは4000元。移動は基本、地下鉄ですが、タクシーも使っています。休みの日には、飲み屋やクラブに遊びに行くこともありますよ」

 山口さんの生まれ故郷は中国地方のある小都市。中学校までは目立たない子供だったという。高校では第一志望の公立校に行くことはできず、私立の学校に行った。中学校の同級生と離ればなれになり、そこが「目立つチャンス」と考えた。

「自分が何か新しいことをしたいと思っても、普通は恥ずかしくて止める。でも新しい環境なら恥ずかしいなどと考える必要がないと思った」

 週に1度、私服で登校する日があり、そのときにエルビス・プレスリーのようなひらひらの付いた服で登校。周囲から浮いていたが、首尾よく目立つことができたので、悪い友達と付き合うようになった。高校2年生の時、キセルで広島まで行き、馬券売場に行って初めて馬券を買った。しかし、未成年だったので警備員に捕まってしまう。その後、武豊が自分が好きだった女優と結婚したことで、「自分も」と奮起しジョッキーを目指すようになった。

 もともと小柄だった山口さんは、43キロまで一気に減量し、レーシックの手術を受けて試験に臨んだが、過剰な減量が祟って栄養失調になり、視力が逆戻り。ジョッキーになり損ねてしまう。

 それでも「オレはジョッキーになる」と家を飛び出し、福井の牧場で馬の乗り方を学んだ。さらに佐賀に移動し、馬の仕事に携わるようになる。佐賀では仲間とともにレクチャーを開催する会社を立ち上げるが、あえなく失敗。その直後、中国で競馬が解禁されるとの情報をキャッチし、単身船で青島に渡る。そこから24時間かけて武漢に行き、できたばかりの巨大な競馬場を目撃する。

 その後、ライブドアのインターンシップ制度を利用して大連のコールセンターで働くようになる。仕事内容は、中国系のパソコンメーカーの日本語応対だった。従業員は3000人くらいいたが、日本人は10人くらいだった。だが、大多数の中国人が日本語を話すことができ、山口さんは中国語を使う必要がなかった。そして、山口さんはそのとき出会った日本人女性と付き合うようになる。当時の月給は3000元。生活するのにぎりぎりの額だった。生活費が足りない日本人は、持ってきた貯金の日本円を崩すなどして、なんとかしのいでいたという。

 その後、インターンシップの期限が切れた。山口さんは、そのまま大連に残り、コールセンターで2年ほど働いた。そしてシンガポールの友人から、「日本人で馬に乗れる奴を探している」という話を聞き、今度はシンガポールへ行った。彼女とは遠距離恋愛を経て、結局別れることになったという。

 シンガポール滞在中、実家の父が危険な状態だとの知らせを受けて、日本に戻った。戻ってすぐに父は亡くなるが、半年くらいは故郷にいた。

 そこで居酒屋のアルイバイト始めたが「18歳の若造に、こき使われた」。ショックを受けたという。山口さんは中国大陸を飛び回り、そこで仕事をしてきた。シンガポールにまで行った。

 しかし、居酒屋の仕事のことについては、「確かにそいつのほうが詳しい」と諦めつつ彼はつづけた。


「『あれ持ってきて』『そうじゃない、違うって』と怒鳴られました。でも腹は立たない。腹が立つのは周囲の女性に『あのおっさん、若い奴に怒鳴られてるよ』とか思われるのが嫌だった。
 でも、本当は他人は、それほど自分のことを気にしてない。日本にいると同級生との社会的ポジションの差というものを感じた。同窓会などで飲みに行っても、高い店に行かれると困る。割り勘にしてもらっても払えないことがある。だから、わざと終了30分前に帰り、『山口はあまり飲んでないからいいよ』と言ってもらい、支払いから逃れた」

 故郷での山口さんの月給は、5万円くらいしかないこともあり、一日の食費は100円まで切り詰めた。大きなパンを買ってきて、少しずつかじり空腹感を紛らわしたこともあるという。
 山口さんは、日本ではどんなに頑張っても駄目だと思い、再び中国へ行くことにした。今度は上海の広告代理店で働くことになった。しかし山口さんは、上海のことがあまり好きではないという。

「何もかもがゴチャゴチャしている。でも、あと数年は上海にいるつもり。次は香港などに行きたいと考えているが、日本に戻るという選択肢は無い。日本は、一番駄目。もちろん日本のことが嫌いなわけではない。武士道や『気合いを入れる』という日本独自の精神は、すばらしいと思う。大震災が起きた時に日本にいたら『何かできることはないか』と被災地に向かっていたかもしれない。何もできないかもしれないけど、何かやらないと始まらない。それはどこにいても同じ」

 山口さんは「何か表現することをしたい」と言う。日本では自分を表現することはできなかった。とも。

 現在の彼の目標は、近々解禁されるという中国での競馬に絡み、日本から輸出される馬の橋渡しをする会社を立ち上げることだと言う。

「日本の馬は、今では世界的に有名。ドバイで一等を取ったりしまいたからね。今僕がやっている仕事は、それに繋げるためにやっている。中国のビジネスを知り、自分のビジネスに繋げたい。ただ、今は同じ目標を共有する仲間もいないし、準備があまりできていない状態。上海ではそれほどいい暮らしはできていない。日本の商社駐在員は、上海など中国各地で豪遊しているらしいが、自分はそんなレベルにはほど遠い。でも嫉妬してもしょうがない。自分の給料はたったの1万元だが、農民工などと較べると遙かにいい暮らしができているし、日本に居た時よりも充実している。

 中国人の未熟さにイライラすることはしばしばありますよ。財布を盗まれたこともあるし、詐欺に遭ったこともある。地下鉄の扉の前で、なぜ出てくる人を待てないのか。でも受け入れなければいけないと思うようになった。苛立ったところで現状を変えられるわけではない。それは自分の境遇にしても同じ。ミクシィの上海コミュニティでは『ろくな能力もないくせに、日本を飛び出してきたアホな日本人』などと、自分のような境遇の人間が揶揄されているが、『そうだよ、その通りだよ!』と思う。そういう人に自分の人生について説明しても理解してもらえない。ただ自分は目標を持つことで、生きるためのモチベーションが保たれていると感じる。

 自分には集中力がない。短時間なら集中できるが、長い間は無理です。中国語の勉強にしても、モチベーションを保つために、中国語を使う目的で女の子のいる店に行ったりした。今は、たまにクラブに行くだけだけど」

 山口さんは最近、物産展でアレンジした中国人の女の子に連れられて上海のクラブに行った。この中国人の女の子にはフランス人の「彼氏」がおり、クラブに行くと10人くらいの男女混合のフランス人がいた。全部で10万円くらい使ったが、彼は割り勘で1万円だけ払った。女の子は西洋人好みの「アジアンビューティ」な感じだったが、仕事ではおとなしく、物産展ではただの売り子。その子がクラブで派手に遊ぶのが面白いと思ったという。

 山口さんは中国上海で、まさに浮遊していた。
(つづく)

 
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http://www.mag2.com/m/0001552211.html に掲載した記事に少し手を加えました)