■上海の大学生

 2011年4月初旬の中国上海。日本で大震災が起き、福島第一原発で事故が起きた後の上海でのことである。

 滞在したホテルの名前は『レイフォントセレブリティホテル』と言う。名前は豪華だが、日本円にして一泊4000円と高くはない。外出すると雨が降ってきたので、このホテルの近くにあったファミリーマートに出掛ける。ファミマは上海の下町にある食材店などに較べてかなり割高。傘が38元(約490円)と日本と変わらない価格設定。しかも、袋は有料である。

 そして両替のため中国銀行に入ると、小汚いジャケットを着たおじさんが、職員でもないのに電卓を持ってしきりに中国語で話しかけてくる。「銀行窓口より高いレートで両替してやる」と言っているようだが、それをこの銀行の職員は知らんぷりだ。

 銀行員はちゃんと英語ができるのでなんとか話が通じる。わたしは、持っていた15万円を換金した。レートは7.5円/元で11000元に。大金持ちになった気分だ。この札束を、隣のおばちゃんにじろじろ見られた。

 その夜、燿という中国人女性と会った。燿は以前、新宿歌舞伎町でスナックをやっていたが、不法就労の中国人を雇った罪で逮捕され、中国に強制送還された経験を持つ。

 しかし今や、高騰した中国株や不動産を運用し、億万長者の仲間入りした成功者となっている。40を少し過ぎた燿は、高級品を全身に纏っているが、眼鏡はアラレちゃんのようで可愛らしい。

 そんな燿が、上海で経営しているのは日本料理屋であるが、これは望郷ではないが、追い出されてしまった日本への想いが募ったことで始めた趣味みたいなもの。だから、あまり儲けを考えていない。

 燿が経営する店には、日本人の客はあまり来ないという。しかし、多くの中国人客で店は賑わっている。この日本料理屋で使われている肉はアメリカ産で、仕入れ値が上下するので難しいが、ほとんどの食材は日本のものを使っていないので震災の影響はなかったと言う。燿は言う。

「日本の株がガクンと落ちたとき、これは買い時だと思いましたね。わたしの友人の日本の商社マンは、震災後家族の安否を確認しに日本に帰った人が多いです。日本の経済は震災のためにひどいことになったが、これ以上悪くなることはないでしょ。日本の株は、これから上がる。わたしは、震災の混乱の中でも礼儀正しくコンビニなどに並ぶ日本人を見て、日本はいいなと改めて思ったよ。でも日本人にはなんというか、危機感が無いね」

 燿は日本のことが大好きだ。また日本で暮らしたいと言う。しかしまだ、日本に帰る予定はない。

「日本も恋しいけど、上海はこれからまだまだ伸びる。今はまだ、これからも上海でやっていこうと思ってます」

 その後は、燿が紹介してくれた日本のテレビ関係の仕事をしている中国人プロデューサーと会食。そして夜が更けていった。

 次の日の朝、わたしは人民広場駅の来福士広場(デパート)に行った。ある中国人の待ち合わせ場所に指定されたそのデパートのスターバックスで彼を待っていた。店員は皆、英語が流暢だ。店内には西洋人がちらほらいる。

 その場に現れたのは、上海の大学に通う申洋君。21歳の彼はヒョロっとしているが、身長180センチくらいと背が高く理知的な顔立ちをしている。真面目な大学生で、日本人とまったく変わらない日本語を喋る。大学ではマテリアル科を専攻している彼は、東京で生まれ、6年間日本で過ごしていた。申洋君は、上海に戻ってきてからは日本に一度も行ったことが無いと言う。

 当時、中国では民主化を求めるデモや集会が呼び掛けられていた。申洋君と一緒に行ってみようかと思ったのだが、彼によると、2週間ほど前がピークで、今は次第に沈静化に向かっているということだった。申洋君は言う。

「そもそも中東のリビアに影響を受けて『革命』の機運が高まっていたわけですが、もう醒めた感じですね。『どうせ中国では革命などできない』という諦めムードがある。おそらく、あと10年から15年は中国の体制は安泰でしょうね。取り締まりは厳しいし」

 申洋君と会った来福士広場の上の映画館は、デモ集団の本拠地で、周囲は大勢の公安によって監視されていた。

「耳にイヤホンを入れている奴が覆面警察官。誰かが変な動きをしたらすぐに逮捕できるようになっている。通行人がデモの写真を取ったら、すぐに『おい』と声をかけられ『写真を見せろ』と言われます。そこにデモの写真が写っていた場合は、その場で削除させれるか、最悪の場合は逮捕される。記念撮影でもデモが写っていたら駄目です。要は、公安当局はデモの存在を知られ、デモが広がるのを恐れているので、徹底的に情報を統制しているんです。警察は弁護士や思想家など、危険人物をマークしている。中国には言論の自由がない。当たり前のことが言えない。しかし教育のある人だったら、政府が嘘をついていることは薄々気づいている。でも農村の教育のない人は何も知らない」

 そんなこんなを、午後ののんびりとしたスタバで話していた。周りに人がたくさんいたが、申洋君の中国共産党批判は延々と続いた。彼は、周囲の人間を気にするそぶりはまったく無かった。

 申洋君には、日本の友達が何人もいた。今日の夕方にも日本人の大学生と会うらしい。彼は、今の大学を出たら東京の大学院に行きたいと思っていたという。しかし、震災や原発の問題があり、両親が反対しているので迷っているとも。

「とにかく中国を出たい。中国だと、いくらいい会社でも初任給は6000元くらい。それではマイホーム、マンションを買うことはできない。給料はほとんど変わらないのに、物価だけ上がっている。男がマンションと車を持っているかどうか、中国の女は気にします。外から見ると中国は発展しているように見えるかもしれないけど、実際にはひどい貧困が残っている。『蟻族』や『鼠族』と言われる人々ですね。農村の若者は一発逆転を狙って都市部の良い大学に入ろうとする。中国の公立学校では、一人でも優秀な生徒を輩出するためにレベルの高いことを教える。入学試験の結果で実力別にクラス分けされ、さらに優秀な生徒は特別クラスに入る。そのクラスで優秀な一部の生徒だけが都市部の大学に行ける。農村から都市部の大学への競争倍率はすごい。20万人受けて2000人行けるかどうか。農村出身者は受験の用紙の色も違う。一方で、都市部の大学志願者は7万人程度ですが、定員は8万人。つまり都市部に生まれれば、少なくともFランクの大学には行ける。しかし農民はFランクの大学にすら行けない」

 都市部の大学生である申洋君の大学格差分析は明快であり、「僕自身はあまり優秀じゃない」と謙遜するが、わたしから見たら、中国語はもちろん、日本語と英語を使いこなす将来有望な理系エリートビジネスマンの卵である。


 そんな申洋君の言葉を、もう少し紹介したい。

「将来はアメリカに行きたいが、あまり成績が良くないので行けるかどうかは分からない。農村部出身のエリートと僕とはやはり差があります。アメリカは一番のエリートが行くところですから。だから日本に行きたい。原発事故が起きたと言っても、中国にも原発がありますし、福島の事故の直後から専門家が『原発は大丈夫です』と発言していたでしょ。実際のところ中国の国民には原発に対する不安はあまり無いです。でも、日本の震災・原発事故に関しても、対岸の火事という雰囲気ですね。あまり興味を持っていないのが中国人の本音。日本から来た人を『放射能』と言って避けるのはありがちですね。そんなこと言ってるの、ほんの一部の中国人だけですよ」

 申洋君はインターネットが大好きである。日本の情報はほとんど全てネットから得ている。

「日本の本はあまり読みませんが、ミステリーは好きです。ネットに慣れて本を読まなくなったこともあります。僕はツイッターで、中国の真実を知った。中国のSNSのアカウントなどはありますが、中国語ではものは書いていない。公安当局バレたら何されるか分からないから。でも日本語のブログは大丈夫かなと。それほど危険なことは書いていないけど、体制の核心に触れること、天安門事件のことなどを書かなければ大丈夫だと思う。当局が設定したキーワードに引っかからないように注意はしています。中国のサイト管理者は自主的に危険な書き込みを削除しますが、ライブドアはしないですね。ツイッター、フェイスブック、ユーチューブは中国からアクセスできません。ただしツイッターの場合、日本のツイッター書き込みソフトを入れていれば投稿できます。中国の危険なユーザーはマークされていて、キーワードによる監視のみならず人力で投稿がチェックされています。でも、中国のSNS利用者は、当局の監視の網に引っかからないように表現を工夫しますからね」

 申洋君は反中国共産党運動の活動家でもなんでもない。ごく普通の学生である。そんな彼が、中国では出版される本は、すべて当局にチェックされている、と怒っている。

「例えばヒラリーの回顧録は共産党を批判した箇所が当局によって勝手に変更され、ヒラリーは激怒したことがあったんですよ!」

 少し話を変えた。中国で人気の日本の作家は? と聞くと、「日本の代表的作家である村上春樹は有名で、最近では東野圭吾が人気」だとも。でも彼は、読んだことは無いらしい。

 申洋君とは、今後ともいろいろと協力し合っていくことを約束して、ひとまず別れることにした。

 彼は、新宿歌舞伎町ではなかなか出会う事のできない、優秀で真面目な中国人の大学生だ。だけれども、それが今の中国の若者の当たり前の姿である。申洋君は今後、新宿歌舞伎町の不良中国人とはまったく違う次元で、世界的なエリートビジネスマンとして、激しい生存競争を開始することになるのだろう。

 当たり前のことだが、今も日本で悪事を働いている、申洋君の同胞である中国人のことなど、彼の目に入ることは、おそらく今後とも、まったく無いのである。
(つづく)


(有料メルマガhttp://www.mag2.com/m/0001552211.html に掲載した記事に少し手を加えました)