単なる個人的な観念に過ぎませんが、わたしは一人の日本人として、日本の隣国である韓国、北朝鮮、中国・台湾について、政治経済や軍事といった大上段で見るだけではなく、底辺に生きざるを得ない人々の流れからも、日本を含めた東アジアという地域を捉えていきたい。そう考えて取材、執筆してきました。

 

例えば日本の暴力団やマフィアという社会問題とは即ち、今や東アジアの底を流れる闇に他ならず、東アジアを考えるには、この問題群から目を逸らすことは出来ないと考えます。

 そして、この漆黒という他ない闇とは真逆であると考えがちな芸能界という輝かしい光は、そうであるからこそ、闇と交わることもあり得ます。グローバル化した東アジアの芸能界が、この光と闇と無縁であることは出来ず、また、単純な善悪で裁断することは出来ないとも考えます。

 いったいに、実態とは多面的な要素を含んでおり、その事実とは複合的な視点から見る必要があるでしょう。そして、わたしに出来ることとは、その多面的な要素からなる実態を可能なかぎり自分自身で調べて、一つの視点として提示するに止まります。一個人が客観的・全体的であろうとする努力と、多面体である事実に対する個人の知り得る絶対的なる限界は、常に衝突を繰り返すのです。その意味において、個人が主張する中立とは原理的に存在し得ず、むしろ、中立・客観をむやみに強調する人間を、わたしは信用することは出来ません。

 

わたし個人が言えること、出来ることとは「それでもなお」可能な限り客観・中立であろうと努力するということであって、自分自身が客観・中立であると主張することは、もの書きのはしくれとして、ただの一度もありません。

 自然科学ではない、社会的事象に対する個人の無力さ、すなわち個人には原理的に不可能な中立・客観ということに対するわたしのスタンスとは、ただただ、一つ一つの証言や資料をかき集め、そして書き遺していく作業を続けるということになります。

 そして、個人ではない社会的な意味における中立・客観とは、ついに「社会的な力」によって決定されていくことでしょう。社会的な力とは権力であり、権力とは、国家や大資本はもちろんのこと、大学という権威、法的な知識や文化的素養ということになりますか。このいずれの権力にも疎外された人々の中立・客観は消し去られてしまうというのが、古今東西のならわしであると言えるでしょう。

 例えば、日本の人々はあまねく公に中立・客観を叫ぶことが出来ますが(もちろん権力の無い日本の人々の声は小さいですが)、北朝鮮の人々のほとんどは、何一つ中立・客観を心の底から叫ぶことは出来ません。彼ら彼女らの本当は叫びたい心の声を、中立・客観としてではなく、事実として提示することは、わたしがやりたい仕事の一つでありました。中国もまた同じですね。

 既にグローバル化した日本を含めた東アジアですが、韓国、北朝鮮、中国の人々と同じく、日本人の少なくない人間が、今の東アジアから取り残されていることも、わたしは気掛かりです。これらグローバル化された東アジアから取り残された日本人の少なくない数が、嫌韓、嫌中を叫びむやみに敵視します。わたしは、その主張の全てが間違いだとは毛頭思わないのですが、ではいったいに、真面目に、真摯に生きている韓国や中国の人々と交わることをやっているのだろうか、そう思います。

 日本を含む東アジアがグローバル化したからこそ生まれる排外主義とは、東アジアの各国それぞれが抱える、グローバル化から取り残された人々の叫び、とも受け取ることは可能ではあります。パスポートすら持っていないアメリカ人は全国民の半数に上り、それでいて世界の中心はアメリカだと信じ切っているという話を聞いたことがありますが、海外に出たことも無い日本人、海外に出ることが出来ない日本人も数多くいることでしょう。それでいて、日本が世界で最も優れていると信じて疑わない。でも、やっぱり不安である。そんな彼ら彼女らの疎外感が、一気に排外主義に転化することは容易に推測できるということであります。

 かといって、わたしは排外主義に共感することはあり得ません。理解と共感とは別物であり、排外主義の原因を理解する作業とは、全くをもってそれを共感出来ないからこそ生まれるモチベーションに他なりません。排外主義の蔓延を防ぐためにこそ、排外主義の中身を理解するのだと言っても良いでしょう。

 この理解と共感の違い、そしてその相互作用が、わたしが時に取材執筆してきた事件や犯罪者、そして暴力団、マフィアだったりしてきたわけです。彼ら彼女らに共感することはあり得ません。しかし、彼ら彼女らを、可能な限り理解していきたいと思ってきたということです。



 困り者の他者や異物を敵視し、憤慨、罵倒することは簡単です。子供でもできます。

 

しかし、そんな他者や異物を理解し、もし可能であれば良き方向に導くこと、それができるのが本当の意味での大人であり成熟というものであるように思います。 

 

 日本のインテリ層の少なくない数の人間は、自らをポスト・モダンとしつつ、韓国をモダン、中国・北朝鮮をプレ・モダンと呼んだりします。要するに隣国諸国を遅れた国として見るわけですね。正直に言えば、その構図は、大方そういうものだろうとわたしも思います。

 

 しかし、こういった日本人の東アジアに対する上から目線は、今後、もはや何ももたらすことは無いでしょう。観念ではなく身体的なレベルで、東アジアと格闘していくことができない日本人は、どんどんと遅れていっていく。そうわたしは、考えています。

 

 格闘すると言っても、日本人が韓国化したり中国化したりすれば良い、ということではありません。もちろん北朝鮮化するなんてもっての他です。

 

 わたしは、日本を含む東アジアの激しい変化そのものに興味を持っています。例えば中国の民主化、北朝鮮金王朝の崩壊、朝鮮半島の統合などです。そして、日本とこれら隣国との歴史的和解を夢見たりします。

 

 いずれも、空想じみていると思います。現実を知れば知るほど、望みは薄くなる一方です。

 

 しかし、最初に書いたように日本を含む東アジアの人々の流れは、もはや止めることはできません。政治経済や体制、軍事といった大上段ではなく、具体的な人の流れという視点から眺めると、やはり東アジアは違って見えてきます。例えば、北朝鮮の脱北者から見た東アジアは、日本人の多くが考える静的なそれではなく、まさに濁流と呼ぶべきものでしょう。

 

 6年もいて中退した学生時代、わたしは主に西欧の哲学、思想にかぶれていました。で、たぶん今もそうです。

 

ですから、封建的・儒教的秩序を好む親中、親韓の人々ともだいぶ意見が違います。なかなか話が折り合いません。そもそもからして、かみ合ってすらいないことの方が多いかもしれません。

 

 こういった、いつまでも埋まらない日本を含む東アジアの齟齬が、これからどうなっていくのか。どう関わっていくべきなのか。少しずつ考えていきたいと思っています。